第5回講演会 子どもが育つみちすじ⑧

今言った5分後にまた同じ事をやりますからね。「さっきたしか言ったでしょう・・・」そんなこと言わんでいいです。5回であろうと、100回であろうと、 「今、私は言っておく、親切だからね。あんたの心はいいことは分かってる。しかし覚えるしかしょうがない」私の家では必ず同じセリフなんです、いつも。 「人生はそういうもんだ、覚えるしかしょうがない」「それはどうして?」
「どうしてじゃない。もうこういうことになっていて、あなたはこの世に生きている限り諦めるしかしょうがない、だからそこを通過したら必ず注意してあげるから」・・・
そうしているうちに、やがて通過してしているうちに、本当に誰も見ていなくても、人の物を取らなくなる。ここ何度も何度も通過してね、まわり見回してね。
私も釣銭ごまかしてね、母からもらったお金を持って絶対買っちゃいけませんっていう悪本を買ってね。本屋に行きまして、小学校3,4年か忘れましたが、母 に頼まれた釣銭を持って本屋の前を、ガラス戸の前を行ったり来たりしてね。もう汗でじっとりなって、こうやって握りながら、どうしょうか、どうしょうかと 思って、とうとう意を決してパッと中に入って。岡山の田舎なんですけれども、本屋さんは一軒しかないんですが、そこへ入って、おばさんにパッと出して、
「これ下さい」って言ったら、またおばさんが、すんなりとくれる訳ですわねェ、お金を出しますから。こんなに簡単に手に入るんだわぁと思って。またそれを 大喜びでかかえて帰りながら、ふと思って。「さあ母にどう説明するか」で。もう考えても考えても小さな頭で考えても、ろくなこと思いつきませんから。
「帰り、そこのところで蹴躓いて、鉄板のところでお釣りを川に落っことして」こんな嘘を、見え見えの嘘はないと思うのに、母はコロリと騙されて、それで、「帰りが遅いから心配していたけども、探してたの?まぁあなたは一生懸命探したのね」と褒めてさえくれて。
それで、なんて簡単に大人は騙せるんだ、とその時思いました。こんなに簡単に騙されるんだーと思って。それで、もうその悪本を隠して隠して持って帰って ね、自分の部屋に帰って、半分はなんとなく面白くて得したぞ、って思いながらも、なんか母に二度と顔向け出来ないことをしたような人間になったような気 が、ちょっとしましてね。ちょっとちくりと胸が痛くって
「あーやっぱり、こんなことこんな思いするぐらいならしない方がいいかなー」と、ちょっと思ったりして、それでももちろん、嘘はしょっちゅう子どもの時からかなり上手ですから、ついて。
また、父親も母親もすぐ騙されますから。で、簡単にこんなに簡単に騙されるんだという経験を、たぶん、どなたでもなさってると思います。
ところが、ある時それをしなくなる。それは自分の中で通過している。今、嘘をついたという通過という意識をもってるから、ずっとなんとなく居心地が悪くて ジクジクしてる。それが、5年か6年か10年、ある時自分の中で、自分として誰に叱られようとも叱られまいとも、こんな思いするぐらいなら嘘をつかないで いこうと自分に決める。これをモラルといいます。
モラルというのは、内側が育たないと本当のものにはなりません。外から見てりっぱな行為をしてるからモラルなんて言ったら、今の偉い人たちが、嘘ばっかりついているのはどうなりますか?ってことですね。
私たちもそうです。いい大人になっても嘘をつきますが、どこかでチクチク思う。子どももチクチク思わないと駄目です。これは言ってない子どもは思いません。なんで人を殺しては悪いの?なんで叩いては駄目なの?という子になってしまいます。
「殺してはいけないの」私はもうこれはしてはいけないことなのと、思春期の若者に言います。
性の逸脱行動とかね。いわゆる、ちょっと遅れてきましたが、援交、援助交際、本当に多いですからね。小学生あたりから・・・。そして嘘ぶきますからね。別に減るもんじゃない、誰も文句言ってる訳じゃない、どこが悪いんですか?
そういうこと言われて親御さんがわが娘がそう言った時に、どうやったらいいでしょうか。
「それはしてはいけないことしてるのよ」と、「これはあなたがどんなに言おうと、してはいけないことなの。」「どうして?」「どうしてじゃなくて、人生と はそういうもの、これは人間として定められている大事なルールなのだから、これ以上は言わないわね」って、私はそれ以上説明しません。
私はそれ以上言わない。してはいけないことなのって言うと、逆にふっと黙ります。あーだから、こうだから理屈じゃないんです。これはね、共に生きていくた めに、人間が決めているルール、もちろん法律も、その時その時の社会で少しずつ変えていきますが、原則的な人間として守らねばならないこと。これを犯すの は人間の常なんですね。

禁止区域に私たちはすぐ入ります。でも、これをペケだと教えられた人は幸いです。胸がチクチク痛んでますから。
私、大変有名な幼稚園の先生と対談しましてこの話をしたら、彼が、日本の有名幼稚園の先生で、お坊さんのお子さんで、ご自分もお坊さんなんですけども、
「先生の話聞いてて、僕も子どもの時、カエルとかトンボとかね、男の子ですから、面白がってペッと潰したり羽根をちょん切ったり、もういたずらっ子で、そ んなことばっかりして、見つかったらお父さんに叱られて、蔵に入れられて、蔵の中でおしっこしたり、泣いたりわめいたり、もう出してくれー」って。
出してもらったらまたすぐその足でまたやって、また入れられて、また捕まってもうずーっと叱られました。」
「で、先生いつまでですか?」
「小学校5年まで、カエル殺してました」
「小学校5年までこうやってやってたの?」
「そうです、もういつもこうやってつぶして、もうなんとなくカエルをつぶして、ヘェーこんな体なんだこうなんだ」
面白かったかどうかは知りません。男の子のカエルやらトンボやらをいじるのは、男の子同士の面白さなんでしょうね。でも、毎回毎回蔵に入れられてもへこた れずにやっていた彼が、「ある時止めました」とおっしゃいました。いい話だなあと、私はそう思ったのは、ある時止めるんですね。それは、自分の中にそこま で成熟するんです。そして、人が見ていても見ていなくても、やっぱり、本当にあの小さなカエルという生き物の痛みとか悲しみとかが、自分の手足がもぎ取ら れることを想像して、トンボの羽がちぎれることを思うかもしれませんね。そうなった時に本当に内なるモラルが発達します。たどり着きます。で、それまで は、見てるか見てないかでだいたい子どもは判断して、しかし叱られることを思ってチクチク胸が痛むっていう経験を、ずーっとさせる必要があります。
そして、ある時自分に気づかせる、気づいて自分が止める日がくる。だからそう思って幼稚園の先生や親御さんに申し上げるんですが、言ったからすぐにするな んてそんなこと考えちゃいけません。で、した子がりっぱだと考えちゃいけません。単にお母さんの顔色を見ている子で、それもそれで大事ですけどね。人の顔 色を見るというのも能力ですからね。
現実吟味力といって重要な能力ですから。現実を吟味する力がなかったら生きられませんもん。
年中人に騙されてばっかりいますからね。大事なことですが、といってモラルとは言いません。
私は、モラルというのは、本当に内側が育たないとないものです。道徳というのはね。
だけど、その最初は4,5歳の時にね、丁寧に叱ること。付録をつけないこと。“あんたはいじわるだ”とかね、あるいは“思いやりがない”とか、“どうしてそんな人の気持ちがわからない”
気持ちなんか、この際関係ない、人の気持ち関係ない、自分の気持ちだけですから。そんな付録をつけると、子どもはそれに傷つきます。それに何を叱られたか分からなくなります。
「人の物を取っちゃいけません、あるいは叩くには、きっと理由があると思う、それはもう胸にいっぱいあると思う。でもね、どんな理由があっても人の頭をい きなり叩いちゃいけないの。これは覚えるしかないの。だから、どんなに年月がかかっても覚えていけばいいことだからね。心配しなくてもいいよ。またやった ら必ず注意してあげるから、ご心配なく」と。

もう、毎日毎日我孫娘たちに、もう5分前とまた同じことやってますから、また走って行って、
「どっちが叩いたの」
「○○ちゃんが叩いた」
「叩いたら駄目でしょう」
「うん!」
叩いてはいけないの、こぶしを挙げて、挙げたところで自分を止めるっていうのは、なかなか至難の技だけど、いつの日か出来るようになるから、その日まで必ず注意するからね。って言って。
その代わり絶対に、あなたはいじわるだとかなんとかだとか言わないように努力してますが、これが、自発心。

そして、小学校が勤勉性です。
小学校に上がりますと勤勉性。勤しむ(いそしむ)心という字ですね。これが面白くなるんですね。勉強しますでしょう、でね、自分で漢字を書いたりなんかして一字書きますと、もう一字もう一字って思うようになる。これを勤勉性といいます。
ただ単にじーっと机に座っているとかいうのを勤勉性っていうんじゃないんですよ。「勤しむ」
「何かを成し遂げる」これは成し遂げた経験をした自分が嬉しかった。そして、自分には自分の力がある。ということを感ずる、有能感といいますが、自分には自分の力があるという勤勉性と有能感。
勤勉というのは、勤しむということですね。有能感、能力がある感じ。これは小学校が一番似合ってます。小学校に上がりますとね、字を初めて習うでしょう。 自分の字が書けるようになる。計算が出来るようになる。面倒くさいけども、そういう自分が、昨日まで出来なかった自分が出来るようになるというのは喜びな んです。必ず喜びです。
一字も書かない子が書くようになるいうのは、もう大変なことですからね。
家に犬が8年ほどいましたけど、書かなかったですから。どんなに頑張ったってね。
一字書く、人間としてもう大変なことです。一字から誰でも始まる、上とか下とか書くわけでしょう、一とか二とか、こんな小さなマス目ににね。自分の指でき ちっと、えんぴつを握ってほんのちょっと動かす訳でしょう。これ運動機能ですからね。頭の指令のもとに、ほんのちょっと横だとか縦だとか動かす、なかなか コントロールできるもんじゃありません。
更に、その意味が分かる。上という字を書くべき場所に書けるようになる。これはものすごい能力ですからね。
「ほう、あなたとうとう一字書いてのけたね」「すごいことやってのけたね」
喜ぶべきです。で、一字書けたのなら、たぶん二つ目の字も書けるかもしれない。
「やってみようか?」
面倒くさいなぁと言いながらも、じゃあ二つ目書いてみようか、って書いてみる。そうやって何百、何千の言葉を覚えていく訳です。
最初、笛を吹けない子が、○ドが初めて吹ける、○レが吹ける。昨日まで何も出来なかったのに、音がドレミと吹けるようになる。跳び箱が跳べるようになる。計算がね、一桁が二桁になる。
何をとっても昨日の自分が他ならぬ自分が獲得をしていっているんだと、もし子どもが気付くならば、もっと獲得しようと思うはずですね、これを勤勉性、あるいは有能感。
自分には自分の力がある、それが駆り立てられる、これが子どもの間の大人の魔力で出来る時間です。で、母港を離れる日が来て、子どもの時間がここでだいたい終わります。ここまでが母港の人です。これが子どもの時間の黄金の時間です。