第5回講演会 子どもが育つみちすじ⑦

動かそうと思わない限り、手は絶対に動きません。みなさんね、“動かそう”と思う、これ意志です。だから、ここでキーワードはいくつも出てきます。この時 期に意志ということ、自分の考え、自分の頭で考えない限り、手は1ミリも動きません。動かそうという意志ですね。それによって手が動く。だからもう、腹を たててお母さんがにぎらせようと思って、ガーッといく。これは他人が動かしているんです。本人の意志ではありませんね。動かすというのには、もっとすごい のは、ここで排泄ですね。
いちばん大きいのは排泄ですが、排泄というのは、神経のコントロールでしょう。排泄、おしっこが溜まる、溜まったかんじがわかって、そしてそれを、これはコントロール力がいる訳です、これが自律心ですが、
自分で自分のコントロールをする。それも、礼儀正しくね。どこでもしていい訳じゃない。
こういう場所でね、トイレの場所で、トイレの便座で、便器で、ちゃんとしゃがんで、
「さぁーいいよ」って言ったら、蛇口をひねるようにジャーッと、それより前だったら早すぎる。じーっと座ってなかなか出なかったら、やがてタイミング合わせるまで練習して、ちょうどタイミングよくする。簡単なようですが、むずかしいんですよ。
この神経がね、ちゃんとコントロールをして、膀胱や肛門の筋肉を支配している神経がおごそかに「さぁーよし」っていうので、ちゃんとおしっこやうんこを出す訳でしょう。
そして、それもちゃんと決められた場所できちんと座って、そして、パンツを下ろしたり上げたり手を洗ったり、一連の作業を。
あなたは人になった。人間になるには身を美しくしましょうね。どういう方法でやっても、体は健康でいいんだけども、人間である限りは身を美しくしましょう ね。これが、躾でしょう。だから、躾というのは、人間社会を生きていくためのルールを教えていく、原則を教えていくということで、この時期にあっているの ですが、この自律心ということ。自分が自分の体をコントロールする喜び。いいですか、自分が自分の体を、法律の律ですから、コントロールする、調節する喜 び、それが一番育つ時なんです。だから嬉しくてね、おしっこし始めた子どもが、もう見て見てって顔していますよね。僕上手にしたでしょう。
ご飯、お箸上手に持てるようになった、見て見て。コップで飲めるよ、とか。洋服こうやって着れるよ。口をとんがらしてね。ボタンをこうやって小さな手で、ボタンのホールをこうやって通して、さあ出来たって言いますよね。
その瞬間、これは出来るということは簡単じゃないんですよ。本当に障害を持ったお子さんを見ていますと、本当に一本神経が切れるともう動きませんからね。それを一生懸命、障害児たちも訓練をして、訓練をして自分の力を身に付けていこうとしている訳です。
普通の子もそうです。普通の子の方が簡単だと思うかもしれませんが、どの子も最初から出来る子はいない。だから、昨日あんな失敗した、でも今日はここまで出来た。すごいことをやってのけたね、って言うと、そうか「自分には力があるんだ」と思いますね。
で、これをね同じように、同じことですが、身を美しくするためにビシビシとむちで叩きのめしてね、「お兄ちゃんはたしかもう一歳何ヶ月の時やってのけたの に」とか、「おしっこはちゃんと出来たよ」とか、「お隣の○○ちゃんはもうあそこまでやってるのにあなたは・・・」って言われる。そうすると、泣き泣き僕 はダメなんだ、ダメなんだと思って、おしっこやうんこが出来て、お箸を使えるようになるとしても、自律心は駄目になります。自分には自分の力があって、意 志力を働かせて面白いほど、自分を自分でコントロール出来るという、これは自分に対する大きな自信になります。
大人になった時も、実はみなさんもう忘れ果てておられますが、その時初めてコップの水を飲んだ、初めておしっこやうんこが出来て「出来たー」っていうその 経験が、みなさんの心、奥深いところにあって、大人になっていろいろやる時にも、もしかしたら失敗するかもしれないがやってみよう、自分には自分の力が あってコントロール出来るはずだと、かすかな、なんか心の内側の芽が立ち上がってくる訳です。これ、自律心ですね。

それから、その次が自発心ですね。これが、5、6歳になります。
この上ですね、4,5歳、4歳から6歳ぐらいまでの年長さんあたりでしょうか。で、この時はもっとスケールが大きいです。まだ、3歳ぐらいまでは、子ども がヨチヨチ歩きからやっとこさ言葉が少し出てきて、3歳になったら「パパ会社行った」と三語文ぐらい言えたら恩の字ですね。ところが、もう3歳ぐらいから 爆発的に伸びていきます。そしてもっと、もっとっていう思いが湧いてきます。もっと、もっと、もっとっていう思いの時は、これは自発心というイニシアティ ブという英語ですが、欲望と置き換えてもかまわないくらい、自分の内側から発する心ですからね。自発というのは、自分の内側から発する心の中に最初の火種 がある、元がある訳です。
ここから伸び上がって、ボールがあったら蹴りたくて蹴りたくて、ブランコがあったら乗りたくて乗りたくて、積み木があったら積みたくて積みたくて、絵が あったらこうやって描きたくて。やりたくてやりたくてたまらない。これ、自発心って言うんです。自発ですからね。他人がさせるの、他発ですね。子どもはや りたくもないけども、お母さんの顔見たり、先生の顔見たら、これやらなくちゃいけないと思う、目に見えない金の糸みたいなものでやらされとる訳です。する とお母さん、「私は言ったことありません」とおっしゃるけど、顔見たら判りますよね。もう満面笑みを浮かべているのを見れば、子どもは「やらなくちゃなら ん」と思う。もうこれ以上渋い顔は出来んという顔をされると「やめよう」と思う。コントロールされてますもんね。「この子がやりたいからやらせてます」ぜ んぜん他人が目に見えぬ糸でコントロールしてますからね。欲望なんです、言ってみればね。
始発はやりたいからやらせるというのがあって、これから自発心というのは伸びていくのが本来。これが自発心。だから、一番4.5歳の子どもは聞きたいことを聞きます。「どうして」何とかんとかでたくさん聞きますね。
それから、行きたいところへ行く。ちょっとしたこの出っ張りがあると、その上に乗っかりたい。それから砂の山があったら、膝こぞうを擦りむいても上がって みたい。上がったからって何になるのか知りませんが、上がってみたい訳です。こういう心というのは、生きていく上でものすごく大事なんです。大人になった 時にね、自発心というのはすごい大事なんですが、この時期に最も重要なことの一つがね、自発心というのは“隅”とセットものなんです。隅という領域があり ます。これは禁止区域がある。ボールを蹴飛ばしたり、大声で歌ったり、もうやんちゃしてその辺を走り回っている、運動場なら○です。「元気がいい子ね」み んな目を細めて喜びますが、ふっと今度教室に入ってきて、ボールを同じ勢いで蹴飛ばしたら・・・禁止区域ですね、入ちゃいけない所に入りましたって、誰か が言わないと駄目です。そこでボールを蹴っちゃいけないんです。これは彼らが悪い訳でもない、この世を生きていくためのルールです。
ルールです。そうしないと窓ガラスが割れますしね、人に迷惑がかかりますよね。同じ行為でも、ここへ入ってきたら、ここは二重丸で自発心があるねぇー、 ずーっと言われてくるけど、ここはペケですね。これルールとしてペケなんですよ。この世に一人しかいなかったらルールは要りませんから、もうどこの端まで もボールを蹴って行けば結構ですが、人が一緒にいるんで、約束事を守らないと、これはしょうがない訳ですねということです。
と、私は説明します。
で、そのルールに違反を、たいてい4,5歳の子どもは毎日やると思います。この時に大人は何するか。ルール違反を教えることです、親切に。親切に、親切に教えることです。
で、それは教えられないと、ここに線があるってことを知りません。生まれてこのかた、ボールはここへ入って来たらしちゃいけない。電車に乗ったら大声で走 り回ったり、騒いではいけない。みんながせっかく静かにちゃんと乗っている時困る。レストランで走り回っちゃいけない。いきなり人の顔を、どんなに腹が 立っても叩いちゃいけない。人に迷惑かけちゃいけない。ね、そういうことです。
どんなに欲しくても人のもの、取っちゃいけない。こういうのみんなルールなんですね。これがやがて法律になりますし、法律ですね。規範になりますね。社会の規範。これはこの時期に最もしっかりと培う必要があります。

で、ここ越えてる時に叱られますから、通過したことを知らされてる子は、誰も見てなかったら、「しめた」ってちょっと思います。しかし、通過したってこと を知ってます。だからなんか心の中がモジモジしてます。で、でも、まあ叱られなくて良かったって思ってます。で、今度見つかったらもう、こっ酷く叱られ て、あっやっぱり見つかってしまったと、子どものとき、私なんかもそうでした。で、これは叱るという教えるという、子どもから見たら叱られるという感覚で す。とても大事です。
今の親御さんは叱り方知らないし、どうしていいのか分からない。電車の中走り回っても、自発心ですから、子どものやりたいようにやらせたいとおっしゃる。
ここは○です。運動場は○です。ここはペケです。これは社会を生きていく、先ほど最後に言いました、共存するための、残念ながら諦めてもらうしかしょうがないルールなんです、と子どもに言うしかありません。子どもに私はそういう風に説明します。
これは、私はアメリカに住んでいる時、あっ、こういう教え方が一番いいんだと思ったのは、ルールという教え方です。そして、絶対に間違えちゃいけないこ と、これはねぇ、人格を誹謗すること。これしちゃあいけません。よくねぇー「あなたはやさしくない、なんで人に譲ってあげないの?」とかね。「いじわるな の」とか・・・・。
人のもの、たとえば積み木、こうやって積んでたら人のものをひゅっと取りたくなる。もっともっとしたい時にね、もう自分のがなくなった。そしたら人の物を 取りますわ。で、上に乗っけるとものすごく叱られます。「取っちゃいけません!」いいんですよ。取っちゃいけませんというのは、どんなに欲しくても、欲し いという心はもう何重○をしてあげたい。もっともっと、それこそエンパイヤーステートビルぐらい積みたいと思ってる子がいたら、素敵だと私は思う。
しかし人のものを取ってはいけない。ここは欲望ですから○で自発心、○ですが、人の物を取るという領域に入ったら、これは残念ながらルール違反なんだわ。 「取っちゃいけないのよ」って言う必要があります。その時に、「あなたはこす辛い」とかね、「このままいったらあなたは泥棒になる」そんなこと全然言う必 要がない。心はまっすぐなんですよ。心はまっすぐ欲望なんです。
ただ、ルールを違反しちゃいけない。
もう、お互いにやりあっていて、腹が煮えくりかえる気持ちがあって、相手を叩きますよね。頭をパーンと叩く、これはそれまでにおそらく相当の言い合いがあ るから、最後に叩いた人は、たぶん損をしている可能性もあります。だけども叩いちゃいけませんね。大人になって、どんなに相手が邪悪で腹黒くて、同僚にも そんな人いますけども、その同僚をそれだからといって、刺しちゃいけませんね。もう絶対にいけませんよ。
それはもう、こっちに言い分は山のようにあったとしてもしちゃいけないことでしょう。たまたま法律違反しても、罪は有罪、しかし情状酌量とかね、あるいは何とかの猶予期間があるとか。
情状を酌量されることはありますが、罪は罪です。傷害罪で罪ですね。これ同じ事ですよ。
だからその時に、あなたは腹黒いとか、いじわるだとか、なんで人を叩いたりするの、そういう心はもう無しにしましょう。
無しにしましょうって言ったって腹の立つことはあります。腹が立ってもしちゃいけないんだ。だからこれは修行するしかない。で、そういうことを罪と言いま す。まあ、罪というのはキリスト教的な表現で、外国から入ってきた言葉ですが、罪というか、自分の中にしてはいけないことをするということを知っておく必 要があります。で、すぐに覚えられるものじゃありません。