未婚率と離婚率の上昇で増える2.5世帯

これも少子化の背景にあるものの一つであろう。

未婚率と離婚率の上昇で増える2.5世帯

@DIME 1月2日(水)8時7分配信http://dime.jp/

◎標準的な2世帯
親世帯の「1世帯」と子世帯の「1世帯」を合計した2世帯が同居する。子世帯の子供はいなくても1世帯となる。

◎新しい2.5世帯
標準的な2世帯に単身者の兄弟姉妹が同居している状態が「2.5世帯」。単身者の兄弟姉妹を「0.5世帯」とカウント。

◎同居する子世帯は息子夫婦が多い
2.5世帯の同居の子世帯は息子夫婦が83%で、2世帯の71%よりも10%以上多い。婿として家に入るよりも、嫁として家に入るケースが多いことを示している。

◎同居する単身の子は女性が多い
0.5世帯に当たる単身者は女性が63%と多い。単身姉+弟夫婦または単身妹+兄夫婦の組み合わせ。2世帯に女性単身者が加わり2.5世帯となることが多い。

◎独立2世帯住宅の比率が高い
独立2世帯住宅とはキッチン・浴室・玄関が全て別々のタイプのこと。2.5世帯は、片親でも子と2人以上で暮らすため、子世帯とは独立した間取りの家が多くなっている。

★変化の背景<晩婚化、非婚化と離婚増で実家に住む単身者が増加>

■離婚率
離婚件数÷婚姻件数で求められる離婚率は2010年で36%と、結婚したカップルの3分の1以上が離婚していることに。

■35~39歳未婚率
2010年では、男性の約3人に1人、女性は4人に1人が未婚。00年からの10年間で男女とも約10%未婚率は上昇した。

 ——————————————————————————–Kaname Tanimoto 13.01.02

いじめ しつけ 叱る 体罰 虐待

いじめ、しつけ、叱る、体罰、虐待 これらの言葉は一連のものと考えられる。大人が子どもたちに対してこれらを行うとき、圧倒的な差がある状況で行われるのであり、決して歓迎されないものだろう。親子であろうと他人であろうと、どんな関係でも許容されないと思う。言葉でも、態度でも、まして暴力的であればなおさら許されないものだろう。
 最近は虐待防止法が制定されたり、いじめが大きく注目されたりして少しは良くなってきていると思われるが、無意識のうちに行っている場合もある。
 特に「しつけ」という名目でなされる場合がやっかいである。「しつけ」は「良いこと」であるという既成観念があるために、極端な場合、どのような方法でも「許される」「当然なすべきである」「必要なものである」となってしまう可能性が高い。虐待で事件と扱われた事例をみても、「しつけ」のためにやった事だ、という当事者の説明が少なくない。そのような行為を許す周囲の状況もある。子どもたちを「しつけ」る前に、周囲の大人も含めて今一度子どもの人権について考えなければならない。
 子どもたちは生まれつき人権を持っているのであり、決して侵害されるべきではない、それが「しつけ」のためであっても。

 

——————————————————————————–Kaname Tanimoto 13.01.02…

一人っ子は増えている?

保育園の紹介や特徴の中に、一人っ子が増えてきておりその為に家庭的雰囲気や兄弟関係を補うことが強調されているのを見かける。
しかし、少子化、つまり出生してくる子どもたちは少なくなっているのは事実であるが一人っ子が増えているというのは少し違うようだ。
戦後の第一次ベビーブームでは240万人の子どもたちが生まれていた、それが今では100万人あまりに減っている。これの主な原因は晩婚化が最も大きなものであろう。
30歳の女性の未婚率は、1985年14%、1990年18.9%、1995年26.2%、2000年33.9%、2005年39.9となっている。また、もう一つの大きな要因として子どもを出産していない女性の増加であろう。40歳で見ると、昭和28年(1953年)生まれの女性では10.2%であった。その後増え続け、1965年生まれの女性で40歳で出産していない女性の割合は24.2%、1969年生まれの女性では27%になっている。
話を一人っ子に戻すと、1960年の一人っ子は44.5%であったが、その後も最低で42.05%、最高48.98%の間で動いている。つまり、一人っ子の割合は決して急増してはいない。ここで見ている一人っ子は、調査時点での一人っ子で、その後、弟や妹が生まれてくるということになる。結婚15年~19年の夫婦で、完結子ども数をみると、1977年から5年ごとの調査(国立人口問題研究所)で、2010年調査までは、大きな変動なく、2.09~2.23人の間で変動していた。2010年の調査で初めて1.96人と2人を割り込んだ。これは、子どもを希望していても現実的に(経済的に)無理な状況が生まれてきているのかも知れない、現在の経済状況の中で、事態はより深刻になってくる可能性がある。それは、第一子、第二子の合計結婚出生率は大きな変動はないが、第三子以上の出産割合が減って来ている事実が示している。3人以上も子どもを育てるには経済的にも大変な負担が生じ躊躇させるものがある。

 

——————————————————————————–Kaname Tanimoto 12.12.24…

禁止言葉

子どもたちが大人の希望の範囲内で行動し、対話してくれたら良いと思われがちだが、子どもたちがそこからはみ出すことに大いに意義があると思う。大人から言われたことしか行わない子どもでは困る。自分で考え、自分で判断し、自分で行動する。このためには時には大人の気に入らないこともするのが当然であろう。子どもたちは試行錯誤を繰り返しながら育っていく。いつも大人から命令されている子どもたちは命令がなくなると行動できなくなってしまう。考えながら行動できず暴走してしまうこともあるだろう。普段から考えて行動する習慣がないのだから。子どもたちがはみ出すことを許容する態度が大人には求められる。

「000してはダメ」「あ! ××はダメ」の禁止言葉。
この言葉が多いと「00しなさい」「ちゃんと×して」「次は△をしなさい」などの命令口調も増えがちのようだ。
また、整列したり、一斉に何かをしたり、皆で声を合わせて発声したりという軍隊なみの行為の勧めも好きなようだ。しかも、これらの指示に従わないと次は罰則が出てきがちである。
自分の命に背くから罰則、というのは西部劇でよく出てくるリンチである。ここでいうリンチとは社会の法律とは関係なく個人的な(極く小さな集団による)判断(多くはその場の感情的に)で行われるという意味である。このようなリンチには色々ある。実際にゲンコツで殴る、平手打ちをする、長時間正座をさせるなどの身体に苦痛を与えるものもある。「食べさせない」「おやつ抜き」「給食を全部食べないからと手の平に残った食事を乗せて食べさせる」、いろいろある。言葉で脅す場合もある。相手に精神的ダメージを与える言葉を使う場合もある。脅し文句を使うこともある。「言うことを聞かないと先生(医者)に注射してもらうよ」などは脅し言葉の常套句である。医者は注射などしないのに。

——————————————————————————–Kaname Tanimoto 12.12.15…

2歳児の怒りと絶望

2歳1か月のHくん、男児。友達に貰った手製の団扇を大事にしている。ある日、その手製の団扇を振り回していたら近くにいた大人の顔に当たってしまった。怪我をしたわけでもなく、少し触れた程度であったが、当たった大人と側にいた母親の二人で、「ごめんなさい」と言うように催促された。しかし彼には思い当たることがあったのかどうか怪しい。何度言われても下を向いて黙っていた。そして終には泣き出してしまった。彼にとっては、手製の団扇が人に当たったという事象は初めての経験であり、それが相手にどう影響したかなど分からなかったであろう。何も謝るようなことをした覚えはなかったのでは。何もしていないのに謝れとは心外であり怒って下を向き黙っていた。ところが周りは謝れとしつこく言って来る、味方はいない、絶望的となって遂に泣くしかなくなった。よく見る光景のように思う。子どもたちを「しつけ」たいが為に何気なくおこなってしまいそうであるが、子どもたちの状況を理解しているかどうかが肝心である。今回のように、初めての経験で突然謝れと責め立てられても、子どもたちにとっては理不尽な出来事に過ぎない。謝る理由が見えていないのである。時々30分叱られた、1時間叱られた等と聞くが、これも意味のない大人の対応であろう。1時間も叱っていたら、叱っている大人も何故叱っているのか忘れてしまって、返答しないこと・黙っていることなど別のことに内容が変わってしまっているだろう。叱るのが目的となってしまっていると思う、意地になって。

——————————————————————————–Kaname Tanimoto 12.12.04

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子どもたちは前向き

今日の給食を尋ねて、たくさん食べた?と訊くと、ほとんどの子どもたちが「うん」と答えてくれます。
早ければ2歳過ぎくらいからこちらの言うことが分かる子どもたちのほとんどです。
しかし、献立の内容まで踏み込むと、まずまず答えることが出来るのは1年生でやっと10人に1人くらい、2年生で10人中5人くらい、そして3年生になると10人中9人くらいとなります。
子どもたちにとって、食べてしまったものを覚えている必要がないのだろうと推測しています。
過ぎてしまったことは特に興味はなくなり、今のこと、次のことに関心が移っているのだろうと思います。
小学生6年生と話していたら、卒業式で涙を流すのが不思議、流すとしたらうれし涙、何故なら自分たちは卒業して中学生になることに期待して希望を抱いているのだから、ということを聞きました。
子どもたちは前向きで、過去の感傷に浸っているということは少ないのだろうと思いました。
卒園、卒業、進級いろいろありますが、子どもたちとは過去ではなく、明日、未来を語り合える時と考えた方が良いだろうと思います。

——————————————————————————–Kaname Tanimoto 12.12.02…

秋~冬、皮膚が荒れてくる

夏が過ぎ秋になると皮膚が荒れてくる子どもが増えてきます。
乾燥肌といわれることも多く、乾燥する季節と結びつけて考えてしまいがちです。
しかし、この子たちをよく見ると、胸やお腹、背中は荒れているが、おむつの中はスベスベの状態ということも珍しくありません。髪の毛も濡れており、胸や背中に触ってみると汗でじっとりしています。周りの大人と比べると一枚多く着て暖かそうですが暑くてたまらないというのが本当でしょう。
おむつは汗をよく吸い取ってくれるのでおむつの中はあまり荒れませんが、背中や胸、お腹の汗はうまく吸い取れていないために肌荒れが生じていると考えています。よく汗を吸い取る衣服を着ることと出来るだけ薄着にすることが最良の対策です。
寒くなってくると子どもたちの手の平、足の裏は非常に冷たく、寒いのではないかと心配で、どうしても衣服を多く着せてしまいがちになります。気持ちはよく分かりますが、子どもたちは暑がり屋です。手足の冷たさは寒さの指標になりません、寒さの指標としては目が覚めているときは胸、お腹、背中の暖かさを使いましょう。ここが暖かければ手足が冷たくても寒くはありません。
眠いときや眠っているときの寒さの指標は足の裏です、ここが暖かければ寒くはありません。
胸、お腹、背中に汗が出ていれば暑いと考えて対応していくことになります。

——————————————————————————–Kaname Tanimoto 12.11.28

 

 

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病児保育 安全優先

病児保育とはその名の通り、「病気」の子どもたちを保育していくことである。
病児保育で預かる子どもたちのほとんどは「急性の病気」であるので、「保育」という側面も無くはないが、どちらかというと「看病」がほとんどである。病気のために、入院の必要はないが、保育園に行くことは出来ず、どこかで「看病」が必要、と医療機関で判断(診断)された子どもたちの為の施設である。
子どもたちの急性疾患は医療機関を受診した時の状態がいつまで続くのか?までは医療機関受診時には予測不可能なことも少なくない。
つまり、診断された後、状態が変わってしまい、診断名も治療も変えざるを得ないこともある。
このような場合に適切な判断がなされ、適切な治療が行われる体制が病児保育では要求される。
急性期の病児を預かる以上、「安全」確保には医療と密接に連携出来ていることが要求されるのは当然であろう。
医療機関を受診した後、症状が急変することはままあることであり、病児保育施設に預かった後に急変することも想定内のことである。
入院していても想定外の急変で対応に追われることはよくあることである。
医療機関としての設備・器具・薬剤やスタッフは想定されていない、”中間施設”としての病児保育施設で出来ることは自ずから限界があり、無理をしてまで病気の子どもたちを預かるべきではない、あくまでも安全が優先されるべきであろう。
その限界は各施設で異なると思うが、甘く見ないで自覚し、自己点検し、自己評価して、より「安全」な施設となることが望まれる。

——————————————————————————–Kaname Tanimoto 12.11.21…

子どもの目線 その2 

子どもたちの事故で多いのが、どこかで打った、どこかから落ちたなどとともに、何かを食べたというのが目立ちます。
食べるものとしては、以前はたばこが多かったのですが最近は減少傾向にあるようです。たばこを吸う人が減っているのと、たばこを吸うのは外でという決まりがある家庭が増えているからでしょう。
最近比較的よくみられる誤嚥では、子どもたちのおもちゃの部品があります。
上の子どものおもちゃの部品が外れていていつの間にか見えなくなった、探せど出てこないし、思い返してみるとさっき下の子がむせていた。きっとこの子が食べたのではないか? ということでひと騒動起きてきます。
胃まで入った物は、だいたい一週間以内くらいには便に混じって出てきますが、食べたかどうか確認してくれということになれば、レントゲン写真を撮ることになります。無用な被爆は避けるべきなので出来るだけ撮らない方向で詳しく聞いて、安全な物であれば便を調べていると、しばらく経ってから大抵は便に出てきます。
子どもたちの周りが掃除が出来ていないわけでは無いようですが、小さな物をつまみ上げ口に持って行くのが大好きな子どもたちですから、掃除に際して同じ目線で、床の上、テーブルの下、椅子の下、ソファの下などをしっかりと点検しておくことが事故防止の唯一の方法でしょう。

——————————————————————————–Kaname Tanimoto 12.11.16…

手の平を大きく広げて

如来の手の平から飛び出すことが出来なかった孫悟空の話がありますが、この話から得る教訓は色々でしょう。
私は、この話から、「安全」という手の平を出来るだけ広げ、自由な遊び・発想・行動などの範囲を限りなく保障していく保育を考えます。子どもたちが自らの判断で行うことを制限しないで奨励して行くことが現在求められている保育と考えます。
 大人が始めに目標を設定し、それが達成できると「大人」の「達成感」を「子どもたち」の「達成感」に転嫁して「共に」「達成感」を感じていくことも少なくないのでは?
このような「達成感」ではなく、子どもたちが自らの手で進めて行った上での「達成感」が尊重されるべきと思っています。もちろん手助けが不要とか、教えてはいけないとか、手を出すなとかと言っているわけではありません。
「最初から決められた到達点」は出来るだけなくそうと言っているのです。子どもたちは天性の発明家です。
シンプルな道具(木切れ、紙切れ、木の葉、水なども含め何でも)さえあれば色々な遊びを作り出していきます、この発明家の才能の芽を摘まないように工夫して欲しいのです。そこには自然に集団が出来、共同作業が生まれ、互いに教え合い、補い合って行きます。ここに必要なのが子どもたちに限りない自由が与えられていることだと思います。
如来の手の上の悟空は自らの判断で空の果てまで行ったと思った、しかし、ここでまだ先があると思ってキントウンに乗って更に飛んでいってもおそらくまだ釈迦の手の上であったでしょう。釈迦は悟空にどこまでも自由に飛ぶことが出来る手の平を用意していたのだと思います。
同じように保育の中でも、まず第一義的に要求されている「安全」ということが保障されれば、出来るだけ大きく手の平を広げて行くことが大切なのだと思います。おもちゃ、絵本、積み木、ブロック、遊び空間などの保育環境の中で大切なのは、シンプルで、出来るだけ多くの種類、出来るだけ多くの数・量が保障され、子どもたちが自ら自由に決定・選択出来ていることであると思います、これが「手の平を大きく広げた保育」ということです。

 ——————————————————————————–Kaname Tanimoto 12.11.11…