手の平を大きく広げて

如来の手の平から飛び出すことが出来なかった孫悟空の話がありますが、この話から得る教訓は色々でしょう。
私は、この話から、「安全」という手の平を出来るだけ広げ、自由な遊び・発想・行動などの範囲を限りなく保障していく保育を考えます。子どもたちが自らの判断で行うことを制限しないで奨励して行くことが現在求められている保育と考えます。
 大人が始めに目標を設定し、それが達成できると「大人」の「達成感」を「子どもたち」の「達成感」に転嫁して「共に」「達成感」を感じていくことも少なくないのでは?
このような「達成感」ではなく、子どもたちが自らの手で進めて行った上での「達成感」が尊重されるべきと思っています。もちろん手助けが不要とか、教えてはいけないとか、手を出すなとかと言っているわけではありません。
「最初から決められた到達点」は出来るだけなくそうと言っているのです。子どもたちは天性の発明家です。
シンプルな道具(木切れ、紙切れ、木の葉、水なども含め何でも)さえあれば色々な遊びを作り出していきます、この発明家の才能の芽を摘まないように工夫して欲しいのです。そこには自然に集団が出来、共同作業が生まれ、互いに教え合い、補い合って行きます。ここに必要なのが子どもたちに限りない自由が与えられていることだと思います。
如来の手の上の悟空は自らの判断で空の果てまで行ったと思った、しかし、ここでまだ先があると思ってキントウンに乗って更に飛んでいってもおそらくまだ釈迦の手の上であったでしょう。釈迦は悟空にどこまでも自由に飛ぶことが出来る手の平を用意していたのだと思います。
同じように保育の中でも、まず第一義的に要求されている「安全」ということが保障されれば、出来るだけ大きく手の平を広げて行くことが大切なのだと思います。おもちゃ、絵本、積み木、ブロック、遊び空間などの保育環境の中で大切なのは、シンプルで、出来るだけ多くの種類、出来るだけ多くの数・量が保障され、子どもたちが自ら自由に決定・選択出来ていることであると思います、これが「手の平を大きく広げた保育」ということです。

 ——————————————————————————–Kaname Tanimoto 12.11.11