CATEGORY

1.育児・保育

36.反抗期2  

3歳児は2歳児よりもいわゆる反抗期の真最中である。
この子たちが自分の主張が言え、それを通そうとするのは大きな成長を見せてくれていると考えて良いだろう。

実際にあった保育園でのエピソード。
 食事中に男の子3人がふざけて遊び始め、テーブルから離れてしまい、食事に向かわなくなってしまった。
「しつけ」という気持ちからか、担任の保育士は、3人を床に正座させ、食事中に遊び始めたこと、

途中で食事をやめてしまったこと、他の子の迷惑になることなどを指摘し、きちんと謝るように求めた。

3人は一応「ごめんなさい」とは言ったが、保育士には決して納得出来るようなものではなかったらしい。

そのため「しつけ」は更に継続され、途中からたまたま登場した園長までもが加わって3人を「しつけ」ようと頑張った。

 

保育士と園長、この二人も含めてここに登場した5人、互いに頑張り説教は1時間近くになってしまった。
そしてこの間に、この日の出来事だけでなくこれまでにも色々気になっていたことを次々と保育士が言い出して、
最後には一体何が問題であったかも子どもたち3人にも分からない状況になった。

そもそも3歳児に説教しようと考えるのは無駄である。彼らにはせいぜい一言で済ますべきである。
それが30分を越え、1時間近くになれば、最初のきっかけなど忘れてしまっている。
大人でも忘れているだろう。

諭し、脅し、声を張り上げ、目でにらみ、怖い顔を見せつけ、身体全体に怒りを表し、結局効果はない。

自分の主張が抑制できるように自然と解決する問題である。

 

——————————————————————————–Kaname Tanimoto 13.08.25

 …

反抗期1

2歳半くらいになると、「風呂に入ろうか」→イヤだ、「じゃ今日は風呂に入るのやめようか」→ダメ、「じゃご飯食べようか」→黙って無視、「先にご飯を食べるよ」→ダメ、一体どうすれば満足するのか?
3歳頃になって言葉が増えると、「そのクッキー少しくれないかな?」→あげないよ、僕のだもの、「じゃ一緒に食べようか」→イヤだよ、僕が食べるから、「じゃ今食べようよ」→ダメだよ、今は食べない、「外に遊びに行こうか?」→イヤだよ、お菓子が食べたいから、「じゃお菓子食べようか」→無視
4歳にもなると、言葉も増えるが返事をしなくなることも増えてくる。そして、自分に都合で良く喋る。大人の言うこともほとんど理解できるようになってきて、良く聞いて覚えていく。(良くで聞いて、よく見て覚えていくのは恐らく生まれてからずっと子どもたちが行っていることあろうが) 三歳児にも増して反抗的に見える子どもたち、一方で要求は増える一方です、あれが欲しい、これが欲しい、これもしたい、まだ眠くない、まだ起きたくない、
「保育園での友達は誰」→無視【心では言いたくても言いたくなくなるらしい】

転んでスネを擦りむいて絆創膏→この絆創膏は誇りか、照れくさいか→誇りであれば剥がそうとすると。「剥がさない!」→「じゃ張っとけば」→【照れくささが全くないわけではないので】→「張ったまま保育園にはいかない」→「じゃ剥がそうよ」→「剥がさない」→→→一体どうすれば

カタツムリのようなもの、頭を出せと言えば引っ込める、もういいやと諦めるとゆったりと頭も角も出してくる。4歳児は、聞き出したり、押し込もうとしたり、説教したり、すべて効果は少ない。
良く聞いてやり、尋ねられたら「幸せ」と思い丁寧簡潔に間違いのないことを伝えること。
4歳児は3歳児より運動神経や言葉や知識や感情が豊富になっており、対等な大人として扱うことがうまく付き合えるコツである。「決して子どもである。」と思わないこと。 むかし付き合った大事な大事な恋人に出会った頃の気持ちで接して欲しい。

——————————————————————————–Kaname Tanimoto 13.07.04…

危険(リスク)は必要

子どもたちにとって「絶対に安全」という環境はないだろう。
室内においても屋外においても、家の中も家の外も、どんなに安全を目指しても無理である。よそ見をしていれば何かに躓いたり、ぶつかったりするであろう、これに伴い怪我をすることも珍しくはない。かといって、子どもたちがよそ見を全くしない生活をすることも考えられない。
ヒトが生活していく中には危険(リスク)は必ず存在する。リスクの存在は避けられないという前提で大きな怪我をしないように配慮していくことが必要である。高いところに上っている子どもは落ちることが想定され、地面に寝転がっている子どもは走って来る子どもに踏まれることもあり、座っている子どもは上から何かが落ちてくるかも知れない。このような時の対応は、「上るな」「寝るな」「座るな」ではなく、危険が迫った時にどのように避けることが出来るかを教えることであり、周りの大人が危険を予測し、寸前に手を差し伸べることが出来る体制を整えて怪我などを防ぐことが大切である。
子どもたちはリスクに囲まれて育つうちにリスクへの対応方法を身につけていくだろう。ここで言う「リスク」とは、ある程度予測可能なものを指している。想定外の危険は「ハザード」として分けて考えるべきで、ハザードには子どもたちも大人も対応は難しい。暗闇で地面に転がっている石、そこらあたりに立っている柱など、どこにあるか見えなければ想定できず、走り回れば、転んだりぶつかったりすることは避けようもないだろう。
子どもたちにとって想定外の危険、ハザードをなくす努力が大切である。ちょっとしたところにハザードはある。少しとがった玩具や家具の角など充分にハザードになり得る。年齢不相応の玩具もハザードになるだろう。園庭の大型遊具、特に滑り台、ジャングルジム、ブランコなどもハザードになり得る、最近は使用禁止にしたり、使用制限を加えているところも多くなっているようだが、それならいっそ撤去した方が園庭も広く、安全に使用できるだろう。園庭で走ることも、動線を考えながら遊びを設定しないと動線が重なってハザードになる。走り回る子とボール投げなど動線の重なりには注意が必要である。

——————————————————————————–Kaname Tanimoto 13.03.24…

ふたたび「しつけ・食事」

 食事の量、種類(好き嫌い)、速さ(時間内に食べ終える)など、大人からみて「こうあって欲しい」と願っても、子どもたちが応じてくれないことは珍しくありません。小食であったり、逆に「ごはん」ばかりたくさん食べたり、好き嫌いが目立って食べるものが偏ったり、ゆっくり食べ過ぎて中々終わってくれなかったり、逆に早食いすぎて噛まずに飲み込むような食べ方をしたり、挙げれば切りがないでしょう。
 このような時に大切なのは食べる目的は何だろうと考えることです。量が目的?種類が目的?速さが目的?これらは目的とすることだろうか?食事の目的は最終的には子どもたちであればスクスクと育つことである。その為には少々のことには目をつむっても構わない。体重、身長、日々の顔付き、顔色、行動量などをしっかり見ていれば食事が不足しているか、栄養が偏っているかなど判断できる。これらに問題なければ食事にも問題なしとして良いと思う。

 たった一口の嫌いなものを食べさせるために時間を費やし、子どもに不快な思いをさせ、食べさせることが出来ない自分に苛立っても何にもならない。

 食事で最も大切なのは楽しいものであるかどうかである。食事の時間が待ち遠しくなるほどよく遊び、走り回ることが大事である。そしておいしい食事の提供を楽しい雰囲気の中でしていきたいものである。

——————————————————————————–Kaname Tanimoto 13.03.01…

子は親の鏡

ドロシー・ロー・ノルトの詩(「子どもが育つ魔法の言葉」石井千春=訳、PHP文庫)が1954年に書かれ、「子は親の鏡」という言葉が時には一人歩きして誤解されたり、意味を取り違えられたりしながら現在まで生き続けています。途中著者によって、加筆されたり、訂正されたりもして現在に至っています。この文庫本を久しぶりに手にして今話題の体罰論議にも通じるものであり、体罰不要論を支持する詩であると思う。すべての体罰をなくしていくことから始めないと、必要な体罰があるという中途半端な主張・考え方は結局体罰肯定論になってしまう。必要な体罰という考え方は、「特定の個人」が「特殊な状況」で「個人的に判断」して行うことを許容してしまうから、普遍的に必要な体罰、社会的に必要な体罰とはかけ離れてしまう。体罰を受けながら「成功」「好結果」を得た人たちは体罰には効果があると考えがちであろうが、その一方で体罰によって精神的、肉体的に被害を受けスポーツや勉学などの場から立ち去った人もたくさんいるだろう。この立ち去った、立ち去らざるを得なかった人にこそ目が向けられるべきであり、そうすれば「必要」な体罰などないことが明らかであろう。

——————————————————————————–Kaname Tanimoto 13.02.10

 …

選択肢

子どもたちに選択肢を与えるという事は、自己決定を出来るようにしていくためには大切な事である。選択肢を与えていると思っているだけで、実は選択する事が出来ない状況も見受けられる。今日はブロックで遊ぼうか?と提示された時、この時点で選択する事は出来ないよと言われたと同じ事になっている。たくさんのブロックがあるからそこから選択してブロックを使った色々な遊びが選択できる、皆で協力してブロック遊びが出来る、今まで作った事のないものを作る事が出来る、いろいろな言い方は出来るであろうが、すべて大人の目線での発想である。子どもたちはブロック以外の遊びを選ぶ事は困難な状況に置かれてしまっているのだから。しかし、子どもたちから大きな不平は出ないだろう。子どもたちは我が儘で大人の言う事を素直に聞かない、なとどいうことも多いが、実際には度量は大きく、適当に大人に会わせて遊ぶであろう。不平が出ないから子どもたちは満足し、充実した遊びが出来ているなどと言うのは大人の見る目、感じる心がないからである。子どもたちには常に多種の選択肢を与える事が自分で考えて遊ぶ第一歩である。多種のみでなく多数も必要。少ない遊具では限られた発想しかできない。積み木を考えてみれば、2個の遊びと100個の遊びと1000個の遊びでは違いは明らかであろう。1人でなく協同しての遊びも出来るくらいの量も大切である。量が少ないと同じ遊びをしたい子がいれば取り合いのけんかの原因にもなるし、何人もで同じ遊びをする事も出ない。有り余るくらいの量がちょうど良いのである。余って困ってから考えれば良い事である。

——————————————————————————–Kaname Tanimoto 13.01.14…

冷たい手、足

昼間、元気で遊んでいる子どもたちの手のひら、足の裏は氷のように冷たいのが普通です。昼間遊んでいる時に寒いかどうか、着ているものが適当かどうか、判断に迷う事も少なくないと思います。寒いかどうかは、背中、お腹、胸に直接触ってみて下さい、そこが暖かければ寒くはありません、そこが汗ばんでいたり、汗があふれていれば単純に暑いのだと考えて下さい。汗が出ない程度に薄着にすることも必要です。手足は冷たいのですが寒いかどうかの判断材料にはなりません。寒いだろうと靴下をはかせる必要もありません。靴下をはくのは、靴を履く時だけで充分でしょう。眠くなった時、眠っている時は足の裏は暖かくなっていますので目覚めている時と異なります。

——————————————————————————–Kaname Tanimoto 13.01.07…

新しい石けん

赤ちゃんが生まれると色々と気になってくる。例えば、今まで普通に使っていた石けんを赤ちゃん専用の石けんを用意するのが普通になっているようである。ところが、少しでも肌荒れが起きてくると原因は身近なものに求める傾向があり、石けんは目に付きやすいものの一つのようである。赤ちゃん専用の石けんはそのまま使い続けて良いかと聞かれる事が多い。肌に直接触れるので気になりやすいのだろう。赤ちゃん用と銘打った石けん、シャンプー、洗剤はたくさんあり、価格も普通の石けんよりは少し高いようである。「どの石けんが良いか」という質問があるが、どれが良いかは使ってみるしかないといつも答えている。赤ちゃん用となっていなくても、赤ちゃんの肌に何らかの悪影響(肌荒れ、湿疹など)が出るかでないかで判断するしかない。今使っている石けんで特に大きな問題がなければ、いくら赤ちゃんの肌によいからと勧めれても、わざわざ高いものを買う必要はない。肌荒れの原因の多くは汗や衣服による刺激であり、石けんが主因ということは少ない。もし、肌荒れが気になり、石けんを新しものに変えてみたいのであれば、どれを選べばよいかは結果を見るしかない。新しい石けんを初めは片腕だけ、片足だけなど限られた部位で使い始めてこれまでのものと比較しながら結果を判定する事が必要だろう。

——————————————————————————–Kaname Tanimoto 13.01.06…

いじめ しつけ 叱る 体罰 虐待

いじめ、しつけ、叱る、体罰、虐待 これらの言葉は一連のものと考えられる。大人が子どもたちに対してこれらを行うとき、圧倒的な差がある状況で行われるのであり、決して歓迎されないものだろう。親子であろうと他人であろうと、どんな関係でも許容されないと思う。言葉でも、態度でも、まして暴力的であればなおさら許されないものだろう。
 最近は虐待防止法が制定されたり、いじめが大きく注目されたりして少しは良くなってきていると思われるが、無意識のうちに行っている場合もある。
 特に「しつけ」という名目でなされる場合がやっかいである。「しつけ」は「良いこと」であるという既成観念があるために、極端な場合、どのような方法でも「許される」「当然なすべきである」「必要なものである」となってしまう可能性が高い。虐待で事件と扱われた事例をみても、「しつけ」のためにやった事だ、という当事者の説明が少なくない。そのような行為を許す周囲の状況もある。子どもたちを「しつけ」る前に、周囲の大人も含めて今一度子どもの人権について考えなければならない。
 子どもたちは生まれつき人権を持っているのであり、決して侵害されるべきではない、それが「しつけ」のためであっても。

 

——————————————————————————–Kaname Tanimoto 13.01.02…

禁止言葉

子どもたちが大人の希望の範囲内で行動し、対話してくれたら良いと思われがちだが、子どもたちがそこからはみ出すことに大いに意義があると思う。大人から言われたことしか行わない子どもでは困る。自分で考え、自分で判断し、自分で行動する。このためには時には大人の気に入らないこともするのが当然であろう。子どもたちは試行錯誤を繰り返しながら育っていく。いつも大人から命令されている子どもたちは命令がなくなると行動できなくなってしまう。考えながら行動できず暴走してしまうこともあるだろう。普段から考えて行動する習慣がないのだから。子どもたちがはみ出すことを許容する態度が大人には求められる。

「000してはダメ」「あ! ××はダメ」の禁止言葉。
この言葉が多いと「00しなさい」「ちゃんと×して」「次は△をしなさい」などの命令口調も増えがちのようだ。
また、整列したり、一斉に何かをしたり、皆で声を合わせて発声したりという軍隊なみの行為の勧めも好きなようだ。しかも、これらの指示に従わないと次は罰則が出てきがちである。
自分の命に背くから罰則、というのは西部劇でよく出てくるリンチである。ここでいうリンチとは社会の法律とは関係なく個人的な(極く小さな集団による)判断(多くはその場の感情的に)で行われるという意味である。このようなリンチには色々ある。実際にゲンコツで殴る、平手打ちをする、長時間正座をさせるなどの身体に苦痛を与えるものもある。「食べさせない」「おやつ抜き」「給食を全部食べないからと手の平に残った食事を乗せて食べさせる」、いろいろある。言葉で脅す場合もある。相手に精神的ダメージを与える言葉を使う場合もある。脅し文句を使うこともある。「言うことを聞かないと先生(医者)に注射してもらうよ」などは脅し言葉の常套句である。医者は注射などしないのに。

——————————————————————————–Kaname Tanimoto 12.12.15…