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子育て講演会、交流会

第5回講演会 子どもが育つみちすじ⑨

子どもの時間というのはね、もしかしますと、みなさんも10歳頃までの出会った人たち、たぶん100人か1000人かそこいらでしょう。親しく出会った 人、この世に60億の人がいますけど、60億の人にいきなり会う訳じゃありません。100人か1000人の人に出会い、人ってこうなんだ。人の表情ってこ んな表情なんだ。怒る時こんなんだ、褒めるときこんな顔して褒めてくれるんだ。こういうのげんけい(原型)アーキタイプ基本系といいますが、人間というも ののイメージの現象、基になる形、イメージが入ります。
それを持って船出をする。いよいよ男の子、女の子が男、女になります。
背がある時自分を通過して行く。
みなさんもご経験ありますか?私も子どもがある時、私もかなり大きい方ですが、私を通過していきました。そして10代に入り、今までとは打って変わってややこしい子になっていきました。
ああ、思春期到来だなぁと思います。節目の川、性という節目の川渡っていきます。
えーそうすると動物ならもう親離れ子離れをしていいのに、人間だけは親離れ子離れがまだ先に、少し時間的に先送りされますね。ややこしいに決まってますよ。
家の中にね、成熟したオスとメスがいる訳でしょう。本当に子どもの部屋に入ると何とも言えない10代の子の部屋って生臭くてね、怪しげな物がいっぱいあっ てね、ちょっと開けてみようか、という誘惑もあったりして、見ようもんなら、もうそれこそどんなにやられるかわからないと思いながらも、ちらっと見てみた りなんかして。でもなんか悪い、絶対これは見たとは言うまいぞ、と思ってみたり。
喧嘩の途上でついポロッと言って、それこそ一ヶ月ほどものを言ってもらえなかったり、親ってやるもんです。で、怒る時にね、もう権威がなくなってますから、何を言っても“言いたかったら言ったら”っていう顔して聞いてますから。
もう年に2回ほど、どうしても言う時は、みなさんもやって下さい。私はたいてい椅子の上に上がって、ここから言うと、どうも見上げて言うのは権威がないん でね。これだけはここから言わせてもらうからね、って言うと、平然として「言いたかったら言ったら」っていつも言ってました。かつての、今やもう30女で すが、懐かしいです。
でねぇー思春期はね、危ないものと心得て下さい。あの、危ない方が、危ない方がっていうのは変ですが、危なくって健康なんです。素知らぬ顔して、あとで過ぎ去ったあと思い返せば、危なかったと思うのが大方のいわゆるよい子でいらっしゃる皆さんでしょう。
でも、危なかったってどこかで思われませんか。友だちについ誘われて行きそうになって、ギリギリで行かなかったとかな。あるいはギリギリで行っちゃって、 警察行ったことが一回あるとかね。たいした差じゃありませんよ。行ったか行かないかぐらいは、ちょっと向こうに行ったか行かないで、行った子は逆です。一 回でも行った子は、もう一生涯覚えてますからね、「いい経験したね」って私はよく非行の子に言います。
「もうあれ嫌だったでしょう、楽しいのならともかく嫌だったでしょう」
やっぱりね、危険って赤い字で書いてあって、ここはここ過ぎたら危険だって言われてて、そういうの書いてあったら不思議にそこへ行きたいもんなんです。10代ってね。
「でも、行ってみたら分かったでしょう、転んでもただで起きちゃ駄目だよ、大人になってね危険って書いてある、つまり法律っていうもの違反すると、もうそのギリギリで船を引き返しなさい。そこを越えたら見つかろうと見つかるまいと、必ず何かが待ってるからね」って。
「それをあなたは経験した。しなかったよりした方が良かったね。いい経験したねェ」ってよく非行児に言います。転んでもただで起きるなと言いたい。
それが自分のものになると、本当に一生涯生きていく時にプラスになります。法律違反ということがどんなに重いか、いい経験をしますからね。そういうのしな くて50代ぐらいになってね、政治家やら何やらが手痛い目にあったりするのを見ると、知っといた方が良かったんじゃないかと思ってさしあげたりして、自分 も割合上手に生きて警察に行ったことがないので、どこかひ弱でね。私も初めて捕まる時はきっと怯えきるだろうな、いつも怯えてますけども。

だからそれぐらいなら、まああっち側へ行かないように、なるべくしようと思うのですが、非行児に会うとややね、やや尊敬もこめて「あなた、先輩ね」って言いたくて、「いい経験だよ」って本当に言ってあげたくてね。
学校に行かない子や引きこもっている子も、人とつながるってなんて難しいだろうって思う。昨日まで口笛吹いてね校門入ってた訳ですから。それが何故にか校 門をくぐれなくなる、それは人間が駄目になったんじゃなくて、自分の中で自分の問題がおこってきている訳です。いいチャンスですよ。真っ直ぐ学校へ行って る子が立派でもなんでもない。たまたま人の背中見てね、運動会の行進みたいで、前の子が歩いてく後ろついて行けばどこかに行きますからね。
円をえがきましょうって言ったって、タッタタッタ行ってるだけで、自分一人で歩くったら大変ですよね。背中が前の背中がないんですもん。よくよく考えてみ たら、学校へ行ってたというのは別に「本当に行くぞ」って、毎日いちいち決心して行った訳でもなんでもなくて、ただ惰性で行っとったような気がしますか ら。
行かない子がね、ある時ちょっと靴紐直したり、ちょっとまわり見回してちょっと気持ちが重くって行かれなくなって、一日二日行かれなくなって、いわゆる不登校になるっていうのは、別に人間としてどこも失格ではなくいいチャンスだと思います。
それは、彼は立派とか立派じゃないじゃなくて、自分は何をしているんだろう、なぜ学校へ行くんだろうって、今まで考えたこともなかったでしょう。今考え る、あそこに人がいる、今まで友だちにあんまり悩んだことがなかったのに、たった一人の誰かのまなざしや声が気になって行かれない、あなたはそれだけ敏感 に世界を感じ始めたのねって言ってあげたいし、世界ってそう言うものよって。
そういう時が大人になってもいつの時代でもある。で、それを越えていく時に人と人とつながることが、前よりももっと深くなる。いいチャンスだから、また転んでもただで起きるなといつも言うんですが、何をやっても転んでもただで起きちゃ駄目よって、いい経験なんだから。
思春期はそういうことが言えて、私は思春期を一生涯の仕事にしたかったのは、いい季節だからです。だって真っ当な季節ですもの。10代をかけてしっかり悩 …

第5回講演会 子どもが育つみちすじ⑧

今言った5分後にまた同じ事をやりますからね。「さっきたしか言ったでしょう・・・」そんなこと言わんでいいです。5回であろうと、100回であろうと、 「今、私は言っておく、親切だからね。あんたの心はいいことは分かってる。しかし覚えるしかしょうがない」私の家では必ず同じセリフなんです、いつも。 「人生はそういうもんだ、覚えるしかしょうがない」「それはどうして?」
「どうしてじゃない。もうこういうことになっていて、あなたはこの世に生きている限り諦めるしかしょうがない、だからそこを通過したら必ず注意してあげるから」・・・
そうしているうちに、やがて通過してしているうちに、本当に誰も見ていなくても、人の物を取らなくなる。ここ何度も何度も通過してね、まわり見回してね。
私も釣銭ごまかしてね、母からもらったお金を持って絶対買っちゃいけませんっていう悪本を買ってね。本屋に行きまして、小学校3,4年か忘れましたが、母 に頼まれた釣銭を持って本屋の前を、ガラス戸の前を行ったり来たりしてね。もう汗でじっとりなって、こうやって握りながら、どうしょうか、どうしょうかと 思って、とうとう意を決してパッと中に入って。岡山の田舎なんですけれども、本屋さんは一軒しかないんですが、そこへ入って、おばさんにパッと出して、
「これ下さい」って言ったら、またおばさんが、すんなりとくれる訳ですわねェ、お金を出しますから。こんなに簡単に手に入るんだわぁと思って。またそれを 大喜びでかかえて帰りながら、ふと思って。「さあ母にどう説明するか」で。もう考えても考えても小さな頭で考えても、ろくなこと思いつきませんから。
「帰り、そこのところで蹴躓いて、鉄板のところでお釣りを川に落っことして」こんな嘘を、見え見えの嘘はないと思うのに、母はコロリと騙されて、それで、「帰りが遅いから心配していたけども、探してたの?まぁあなたは一生懸命探したのね」と褒めてさえくれて。
それで、なんて簡単に大人は騙せるんだ、とその時思いました。こんなに簡単に騙されるんだーと思って。それで、もうその悪本を隠して隠して持って帰って ね、自分の部屋に帰って、半分はなんとなく面白くて得したぞ、って思いながらも、なんか母に二度と顔向け出来ないことをしたような人間になったような気 が、ちょっとしましてね。ちょっとちくりと胸が痛くって
「あーやっぱり、こんなことこんな思いするぐらいならしない方がいいかなー」と、ちょっと思ったりして、それでももちろん、嘘はしょっちゅう子どもの時からかなり上手ですから、ついて。
また、父親も母親もすぐ騙されますから。で、簡単にこんなに簡単に騙されるんだという経験を、たぶん、どなたでもなさってると思います。
ところが、ある時それをしなくなる。それは自分の中で通過している。今、嘘をついたという通過という意識をもってるから、ずっとなんとなく居心地が悪くて ジクジクしてる。それが、5年か6年か10年、ある時自分の中で、自分として誰に叱られようとも叱られまいとも、こんな思いするぐらいなら嘘をつかないで いこうと自分に決める。これをモラルといいます。
モラルというのは、内側が育たないと本当のものにはなりません。外から見てりっぱな行為をしてるからモラルなんて言ったら、今の偉い人たちが、嘘ばっかりついているのはどうなりますか?ってことですね。
私たちもそうです。いい大人になっても嘘をつきますが、どこかでチクチク思う。子どももチクチク思わないと駄目です。これは言ってない子どもは思いません。なんで人を殺しては悪いの?なんで叩いては駄目なの?という子になってしまいます。
「殺してはいけないの」私はもうこれはしてはいけないことなのと、思春期の若者に言います。
性の逸脱行動とかね。いわゆる、ちょっと遅れてきましたが、援交、援助交際、本当に多いですからね。小学生あたりから・・・。そして嘘ぶきますからね。別に減るもんじゃない、誰も文句言ってる訳じゃない、どこが悪いんですか?
そういうこと言われて親御さんがわが娘がそう言った時に、どうやったらいいでしょうか。
「それはしてはいけないことしてるのよ」と、「これはあなたがどんなに言おうと、してはいけないことなの。」「どうして?」「どうしてじゃなくて、人生と はそういうもの、これは人間として定められている大事なルールなのだから、これ以上は言わないわね」って、私はそれ以上説明しません。
私はそれ以上言わない。してはいけないことなのって言うと、逆にふっと黙ります。あーだから、こうだから理屈じゃないんです。これはね、共に生きていくた めに、人間が決めているルール、もちろん法律も、その時その時の社会で少しずつ変えていきますが、原則的な人間として守らねばならないこと。これを犯すの は人間の常なんですね。

禁止区域に私たちはすぐ入ります。でも、これをペケだと教えられた人は幸いです。胸がチクチク痛んでますから。
私、大変有名な幼稚園の先生と対談しましてこの話をしたら、彼が、日本の有名幼稚園の先生で、お坊さんのお子さんで、ご自分もお坊さんなんですけども、
「先生の話聞いてて、僕も子どもの時、カエルとかトンボとかね、男の子ですから、面白がってペッと潰したり羽根をちょん切ったり、もういたずらっ子で、そ んなことばっかりして、見つかったらお父さんに叱られて、蔵に入れられて、蔵の中でおしっこしたり、泣いたりわめいたり、もう出してくれー」って。
出してもらったらまたすぐその足でまたやって、また入れられて、また捕まってもうずーっと叱られました。」
「で、先生いつまでですか?」
「小学校5年まで、カエル殺してました」
「小学校5年までこうやってやってたの?」
「そうです、もういつもこうやってつぶして、もうなんとなくカエルをつぶして、ヘェーこんな体なんだこうなんだ」
面白かったかどうかは知りません。男の子のカエルやらトンボやらをいじるのは、男の子同士の面白さなんでしょうね。でも、毎回毎回蔵に入れられてもへこた れずにやっていた彼が、「ある時止めました」とおっしゃいました。いい話だなあと、私はそう思ったのは、ある時止めるんですね。それは、自分の中にそこま …

第5回講演会 子どもが育つみちすじ⑦

動かそうと思わない限り、手は絶対に動きません。みなさんね、“動かそう”と思う、これ意志です。だから、ここでキーワードはいくつも出てきます。この時 期に意志ということ、自分の考え、自分の頭で考えない限り、手は1ミリも動きません。動かそうという意志ですね。それによって手が動く。だからもう、腹を たててお母さんがにぎらせようと思って、ガーッといく。これは他人が動かしているんです。本人の意志ではありませんね。動かすというのには、もっとすごい のは、ここで排泄ですね。
いちばん大きいのは排泄ですが、排泄というのは、神経のコントロールでしょう。排泄、おしっこが溜まる、溜まったかんじがわかって、そしてそれを、これはコントロール力がいる訳です、これが自律心ですが、
自分で自分のコントロールをする。それも、礼儀正しくね。どこでもしていい訳じゃない。
こういう場所でね、トイレの場所で、トイレの便座で、便器で、ちゃんとしゃがんで、
「さぁーいいよ」って言ったら、蛇口をひねるようにジャーッと、それより前だったら早すぎる。じーっと座ってなかなか出なかったら、やがてタイミング合わせるまで練習して、ちょうどタイミングよくする。簡単なようですが、むずかしいんですよ。
この神経がね、ちゃんとコントロールをして、膀胱や肛門の筋肉を支配している神経がおごそかに「さぁーよし」っていうので、ちゃんとおしっこやうんこを出す訳でしょう。
そして、それもちゃんと決められた場所できちんと座って、そして、パンツを下ろしたり上げたり手を洗ったり、一連の作業を。
あなたは人になった。人間になるには身を美しくしましょうね。どういう方法でやっても、体は健康でいいんだけども、人間である限りは身を美しくしましょう ね。これが、躾でしょう。だから、躾というのは、人間社会を生きていくためのルールを教えていく、原則を教えていくということで、この時期にあっているの ですが、この自律心ということ。自分が自分の体をコントロールする喜び。いいですか、自分が自分の体を、法律の律ですから、コントロールする、調節する喜 び、それが一番育つ時なんです。だから嬉しくてね、おしっこし始めた子どもが、もう見て見てって顔していますよね。僕上手にしたでしょう。
ご飯、お箸上手に持てるようになった、見て見て。コップで飲めるよ、とか。洋服こうやって着れるよ。口をとんがらしてね。ボタンをこうやって小さな手で、ボタンのホールをこうやって通して、さあ出来たって言いますよね。
その瞬間、これは出来るということは簡単じゃないんですよ。本当に障害を持ったお子さんを見ていますと、本当に一本神経が切れるともう動きませんからね。それを一生懸命、障害児たちも訓練をして、訓練をして自分の力を身に付けていこうとしている訳です。
普通の子もそうです。普通の子の方が簡単だと思うかもしれませんが、どの子も最初から出来る子はいない。だから、昨日あんな失敗した、でも今日はここまで出来た。すごいことをやってのけたね、って言うと、そうか「自分には力があるんだ」と思いますね。
で、これをね同じように、同じことですが、身を美しくするためにビシビシとむちで叩きのめしてね、「お兄ちゃんはたしかもう一歳何ヶ月の時やってのけたの に」とか、「おしっこはちゃんと出来たよ」とか、「お隣の○○ちゃんはもうあそこまでやってるのにあなたは・・・」って言われる。そうすると、泣き泣き僕 はダメなんだ、ダメなんだと思って、おしっこやうんこが出来て、お箸を使えるようになるとしても、自律心は駄目になります。自分には自分の力があって、意 志力を働かせて面白いほど、自分を自分でコントロール出来るという、これは自分に対する大きな自信になります。
大人になった時も、実はみなさんもう忘れ果てておられますが、その時初めてコップの水を飲んだ、初めておしっこやうんこが出来て「出来たー」っていうその 経験が、みなさんの心、奥深いところにあって、大人になっていろいろやる時にも、もしかしたら失敗するかもしれないがやってみよう、自分には自分の力が あってコントロール出来るはずだと、かすかな、なんか心の内側の芽が立ち上がってくる訳です。これ、自律心ですね。

それから、その次が自発心ですね。これが、5、6歳になります。
この上ですね、4,5歳、4歳から6歳ぐらいまでの年長さんあたりでしょうか。で、この時はもっとスケールが大きいです。まだ、3歳ぐらいまでは、子ども がヨチヨチ歩きからやっとこさ言葉が少し出てきて、3歳になったら「パパ会社行った」と三語文ぐらい言えたら恩の字ですね。ところが、もう3歳ぐらいから 爆発的に伸びていきます。そしてもっと、もっとっていう思いが湧いてきます。もっと、もっと、もっとっていう思いの時は、これは自発心というイニシアティ ブという英語ですが、欲望と置き換えてもかまわないくらい、自分の内側から発する心ですからね。自発というのは、自分の内側から発する心の中に最初の火種 がある、元がある訳です。
ここから伸び上がって、ボールがあったら蹴りたくて蹴りたくて、ブランコがあったら乗りたくて乗りたくて、積み木があったら積みたくて積みたくて、絵が あったらこうやって描きたくて。やりたくてやりたくてたまらない。これ、自発心って言うんです。自発ですからね。他人がさせるの、他発ですね。子どもはや りたくもないけども、お母さんの顔見たり、先生の顔見たら、これやらなくちゃいけないと思う、目に見えない金の糸みたいなものでやらされとる訳です。する とお母さん、「私は言ったことありません」とおっしゃるけど、顔見たら判りますよね。もう満面笑みを浮かべているのを見れば、子どもは「やらなくちゃなら ん」と思う。もうこれ以上渋い顔は出来んという顔をされると「やめよう」と思う。コントロールされてますもんね。「この子がやりたいからやらせてます」ぜ んぜん他人が目に見えぬ糸でコントロールしてますからね。欲望なんです、言ってみればね。
始発はやりたいからやらせるというのがあって、これから自発心というのは伸びていくのが本来。これが自発心。だから、一番4.5歳の子どもは聞きたいことを聞きます。「どうして」何とかんとかでたくさん聞きますね。
それから、行きたいところへ行く。ちょっとしたこの出っ張りがあると、その上に乗っかりたい。それから砂の山があったら、膝こぞうを擦りむいても上がって みたい。上がったからって何になるのか知りませんが、上がってみたい訳です。こういう心というのは、生きていく上でものすごく大事なんです。大人になった 時にね、自発心というのはすごい大事なんですが、この時期に最も重要なことの一つがね、自発心というのは“隅”とセットものなんです。隅という領域があり …

第5回講演会 子どもが育つみちすじ⑥

それは、信頼感を与えてあげてこの子を愛して守ってあげたいと思っていたら丁度いい加減になります。どんなに頑張ったって80点か70点位しか取れません、どんなお母さんも。
だって赤ちゃんとお母さん、別人ですから、100%子どもの欲求が分かる訳ないです。一生懸命側にいても泣きやまない時、こっちが泣きたくなりますね。 「何か言ってよ、何がしてほしいのか、してあげるから」・・・言いたくなる。でも、何をしてもね、おむつを替えてもおっぱいをあげてもお白湯をあげても何 をしても泣きやまない時、子どもはその間ずーっと怒ってます。つまり、自分の欲求にたどりついてもらえないから。
で、最後に眠かった。もうやっと、寝入った時の幸せな顔を見て、「あー眠かったの、ごめんごめん」って。そういうことしょっちゅうありますね。それはこの 子になんとかしてあげたいと思うお母さんや先生が10点ほど引かれてしまうけど、その引かれ方とっても意味がある訳です。
最初からどうでもいいですわーって言ったらもっと悪くなります。やっぱりね、なんとかこの子が気持ちよくなるようにしてあげたい、という素朴なごくごく健康で平凡な考え方で十分です。
そして、一生懸命してみて子どもが待っている時間があって、でも待てば必ずくる、という経験を100回も1000回もする。
そうすると、赤ちゃんはここで希望という人格的活力を身につけると、私は特によく使うんですが、赤ん坊の時にはね、人間の人格的活力として自分の人格を組織づける強い力のひとつが希望ということ、希望のもてる人というのはね基本的信頼感です。

つまり、この世に失敗やら間違いやらいっぱいあって、暗―い夕暮れがあるでしょう。
仕事に失敗するか、友だちとあるいは恋人とうまくいかない、夫婦がうまくいかない、親子がうまくいかない、あーあって暗い夕暮れを迎える時に、でも明日ま た頑張ってみよう何かいいことがあるかもしれない、かすかな明かりを見いだす人、これは理性で思うよりも何より自分がそういうタイプの人は信頼感、人に対 する自分に対する信頼感がどこかで無意識のうちに火種に火をつけるんです。
そして、朝、朝日が昇ってなんとか生きてみようって思う訳です。これは言葉で説得より何より、その人の人格の深いところにある力、活力なんですね。赤ちゃんは希望でしょう。
つまりもう100回も1000回も、一日に何回も何回も、一年経ったら100回も1000回もありますが、泣いたら来てくれる泣いたら来てくれる、あのつ らいお腹がすいて苦しいとき助けに来てくれたという経験を何回も何回も経験すると、人生でうまくいかない時も、もしかしたらうまくいく日が来るかもしれな い。未来について誰も何の保障もないんですよ。
希望というのはそういう時に生まれる力ですから、反対は絶望ですけれど、絶望も我々は感じます。もう絶対駄目だと思う、誰も明日のことは分からないにも関わらずネガティブに思うのを、絶望といいます。そして、その中にかすかでもいい光を見いだす。
だから子どもの時基本的信頼感と希望という力は、これは大人になって、どうしてこの人はこんなに不幸の問屋さんみたいにね苦しんでいて、私の前に来る患者さんなんかもそうですが、
もう本当になんとまあ次から次へと苦しい試練の中に、と思うような方でも、ふっとね、でも人生何かあるかもしれません。なんとか頑張ってやってみたいと思いますっておしゃる方があります。
これは、私が説得したりなんかよりも、自分の内側から、さっきのディベロプメントですね。
何か種のようなものが自分の中で立ち上がる訳ですね。

そして、打ちひしがれる中で何とか生きてみようと思う。それは赤ん坊の時に、これだけじゃないんですが、ここで一番獲得できるといってるんですが、何度も 何度も基本的な本当に生きるか死ぬかというぐらいベイシックなその経験の中で、子どもは人格的な活力として、この希望という力を獲得するんだろうと考えま す。
反対があのあれですね、虐待を受ける子どもたち、0歳の虐待、乳児の虐待というのがありますね。これぐらい悲しいことはありません。一番信頼を置くべき親 に愛されないどころか、本当に恐怖の経験をさせられるとしますと、子どもはこの世界に何の光も見いだせなくなります。人というものを信頼できなくなりま す。不信に黒々と心を塗りつぶされますね、で、そうなりますとね、生きていく時に人を愛したり信頼することが大変難しくなります。
基本的信頼感が危うい訳です。しかもね、人に対する信頼感が危ういよりももっと重要なのは、自分に対する信頼感、赤ちゃんでね他人に愛されることで、他人を愛する力ができるっていうのはよく言われます。
愛された子どもが人を愛することができる、そうですね。皆さんも人に愛されて、本当にいい人間関係をもつことによって、自分の中にエネルギーがしっかりと湧いてくる。

いじめる子、犯罪を犯した子が沢山いる訳ですが、この子たちの中には、そういう心の中に基本的信頼感を培うことを失敗している子どもたちがいます。その子 に出会うと本当に人に対する愛のかけらも育てられない悲しみがあります。それでも、その子たちが本当にこの世に、やさしく本当の思いやりのある人に出会う と、心が少し変わります。そして「あー、人は信頼できるかもしれない」と思って、少しずつ人を信頼することを覚えていきます。
ところが、治療で一番手間どうのは、人を信頼させることよりも、自分を信頼する力、こちらの方が治療がむずかしいです。
つまりね、人に愛されているあの赤ちゃんたち、みなさんが抱っこして、もう落とさないようにって思って一生懸命抱っこしますね、お父さんもそうですね、お 父さんも同じですよ、お母さんもそうです。お風呂に入れて、最初は危なげな手つきですね、耳にはじゃぶじゃぶ水が入りそうで、お湯が入りそうで、あーこれ は危ないなって思ってたりします。ごつごつした手つきでね。
でも、いつの間にかお父さんもやさしい、やさしい手つきで、子どもを傷つけないように傷つけないようにって、こう愛撫するようにお風呂に入れたり、おむつ を替えたりなさいますね。それはもう子どもへの思いが、自然に子どもにやさしくいとおしさを増していく、素敵な母なる心、同じ心が育つわけですが、そうい う風に育てられた子どもたちは、何を感ずるか、人を信頼することと、それよりもっと大きいこと。“私は私に値打ちがあると思う”だってこんなに大事にされ …

第5回講演会 子どもが育つみちすじ⑤

まあ、クラウスという新生児学者が、「母子の絆」とこれを呼びましたけれど、私の時代は、私は二人の娘がいますが、特に上の子は大きな病院で産みましたから、もちろん新生児室に連れ去られた組です。
で、それは、新生児期は大変危ない時期でもあります。弱いですからね、だからまあ丁度いい温度だとか湿度だとか、そういうよい環境の中におかないと危ない ということで、新生児室というのが考えられたんでしょうけれど、動物がそうであるように、つまり生まれた瞬間が一番敏感なんです。この時に臭いをかいだ臭 い、たとえば牛の赤ちゃんが生まれ、たまたまこの時お母さんじゃない別の牛が育てようと思うと簡単なことなんですよ。育ての親になってもらう牛の臭いのし みこんだ布を生まれた瞬間にその赤ん坊に嗅がせたら、実の親でもなんでもありません、この臭いだけで生涯これが母だと思います。これをすり込みといいます が、ものすごく深くすり込むんですね。
初めて聞く声、お腹の中によーく聞こえてますから、胎内にいる赤ちゃんっていうのは大変よく声を聞いています。「これは秘密よ」なんてお母さんが言って も、全部赤ちゃんは盗み聞きしている訳で、一緒に歩いていますからね。お母さんの声を10ヶ月聞いてますから、この世に生まれてきて未知の世界に赤ん坊は 放り出された瞬間の孤独と恐怖は大変なものだろうと思いますが。
心理学者はこれを出産外傷説(トラウマ)だと言ってるぐらいですが、私たちみんな、お母さんの胎内、自然で豊かで満ち足りたね胎内から飛び出してきた瞬間 の恐怖と孤独というのは、私たちが、たまたまずっとそれを記憶にしていないから生きのびているだけで、心の奥深いところでは大きな喪失感、不安感を持って いるだろうと心理学者が解説してみせるのはそういうことでしょう。
で、その時にね、お母さんがね、すぐ生まれてすぐお母さんの声を聞き顔を見て臭いをかいで味をみて、肌の感触、五感ですね。これはやっぱり大きいだろうなと思います。
そして、彼と私とで自然出産育児懇話会という会を昨年発足させましたけれど、三回助産師さんたちとご一緒に、出来る限り自然な出産、私も自分の子どもが新 生児室にいっていて、おっぱいをあげる時だけ出かけていっておっぱいをあげるというふうにして、子どもを育てた訳で、だから駄目になったとは言ってませ ん。勿体なかったと思っています。
できれば皆さんもそうであったと思いますよ、私もそうでしたから。
昔、黒丸清四郎っていう有名な児童精神科医がおられまして、先生がかつておっしゃった言葉も同じで、ご自分の娘さんの出産に立ちあわれて、新生児室に子ど もが連れ去られるのをみて、「お願いだからそばに置いておいてほしい」って頼んだけれども無理だった。あれは残念なことをそました。って今から30年ほど 前に、黒丸先生おしゃっておられて、「あーあさすがだなぁー」と今思い返します。
ですからね、そういうことを知らないと知ってるでは違うんですね。まずそこで、母と子。
で、お父さんもそこで参加する、早いうちからお父さんが我が子の生まれたすぐのところで参加して、子どもが本当にこの世に生まれてきて、自分の子どもとし て出会いがあって、そして、私が「こんにちは赤ちゃん、私がママよ、私がパパよ、あなた我が子よ」っていうねぇつながり方を持つ。大変自然な営みなんです ね。これが基本かなぁ、と。できたらそうあることは随分違いを呼ぶだろうと思いますが、まあその続きで一年間、皆さん保育なさる時もそうで、同じ事なんで すが、今申し上げたように、赤ちゃんはその五感を通して世界を感ずるんですね。

 

五感というのは、触覚、触れること、触れるのは体中どこからでも分かります。温度だとか痛覚含めて、触ったらすべすべしとるとかね、堅いとか分かるように、これも1センチでも離れていたら触ってなかったら分かりません。触ったら分かりますね。見事なもんですね。
直接に体験するということと、体験しない。単に言葉で聞いたり話を聞いただけでは、この黒板のこの感触というのは、触ったら一瞬のうちに分かりますけどね。
どんなに他人に説明を受けても触らなかったら分からないでしょう。これが五感、触覚、あとは入口は決まってます。視覚と聴覚と味覚と嗅覚ですね。
この五感という五つの感覚ということですが、これが結局孤独な私たちの営み、皆さんもお一人お一人ご自分が中にいらっしゃって、実はご自分の中にあるもの私だけのもの、皆さんのだけのものなんですよ。もともと誰もそこに入れない訳です。
今皆さんが何を考え、何を欲望していて、どんなことを感じているかこれは自分だけのものですね。ところがその自分という堅い自己の殻、自己の境界線を突き抜けて入ってくるもの、これを刺激といいますが、この刺激を受け入れることがこの五感なんです。
ここが五感、ここを通って声が飛び込んでくる、ここを通って何かが見える、何かに触れる、何かの臭いがする、味がある、ここは生き生きと目覚めますねェ、ここを通り抜けてこの中で何かが起こる、そしてそれがずーっと体の中に痕跡をとどめる訳です。これを体験といいます。

体験というのは体の経験ですね。これを覚えているとか覚えていないとは関係ありません。
関係ないというよりも私たち覚えていないことは体験していないように思うけれども、赤ちゃんの時の産湯が熱かったか寒かったかそんなことも覚えてません し、お母さんとどんな出会いをしたか何も覚えてませんが、覚えていないからなかったじゃないんです。覚えていなくっても体は突き抜けていったものっていう のは、必ずまざまざとこの体の中に何かの痕跡を残している訳です。
で、そういうふうに考えます時に、乳児期は五感なんですね。これは保育園の先生方、そしてお母さんをサポートなさる方たちに、赤ちゃんは五感を通してね、 この未知の人間世界、人の世界っていうは彼らは何も知りません。お母さんの子宮の中が10ヶ月の世界でした、宇宙でした。
それが一挙になくなってこの世に飛び出してきて、そこでお母さんも見る、お母さんの声を聞く、あ、これは覚えがあるぞって思うんでしょうね。愛育会の先生 の有名なビデオを見たことがありますが、ほんの2,3週間、生まれてもう数日ですかね、お母さんが私がママよ、○○ちゃんいい子ねと声をかけると、体は赤 …

第5回講演会 子どもが育つみちすじ④

そうやって10年ほど行きます。
船出ですが、試験航海と思って下さい。まだ港の内です。
遠いね、いきなり遠い遠いインド洋のむこうまで船は行く訳じゃありません。たぶん船出したばかりの小さな小舟はね、その辺うろうろうろうろしていて、母港 を後ろ見ては「帰りたいなぁ」と思い、「でも、帰らないぞ」と思い「でも困ったら帰っておいで」って声が聞こえると「うん、困ったらあそこへ帰ろう」と 思って、なかなか帰らない。これが一番健康な姿です。

そして、本当にひっくり返って前にも後ろにも動けなくなる。学校に行かれない。あるいは対人恐怖になる。そして引きこもりたくなる。あるいは苦しくてたまらなくって手首を切る。
いろいろな症状が思春期には荒れ狂いますけれど、その彼らが、船がもう前にも後ろにも進まなくなるという思春期の危機ですが、その時に子どもたちはどうするか、若者たちはどうするか、帰ってくる訳です。
帆柱が倒れてますからね、船があちこち傷ついてる訳ですから母港に帰ってきて。
母港というのは親御さんのところ、あるいは私のようなところ、帰ってきてそして暫しそこに碇を降ろしてもう一度自分を見直してみる。

そして、あちこち自分で眺めて傷を癒して、あー自分はこんなにも間違いも失敗もあるけれど、でも、よくよく見れば、自分は自分なりの力があって、全然駄目 だという彼らが、自分のことは「駄目な人間で、好きなところは何もなくて、大人になっても何も出来ることはありません。」
と、たいていの若者は言いますが、私の前で。
でも、じーっと考えてみるとそうではない。赤ちゃんのときから今まで歩いてきた自分、そしてそこで蓄えた自分、人と比較ではなく自分には自分なりに持ってきたものがある。と、ふっと気付きます。
そして、彼らは再び、では出て行こうかと、もう一度あちこち直した船はまた出かける。また帰ってきてまた出かける。まあそれが一番思春期のイメージに似合ってますが。
その時に、帰るべき母港を持たないものは不幸です。あるいは、もう母港に帰らないままに本当に船が沈んでしまうととても胸を痛めます。残念に思います。
思春期は危ない時期というふうに前提をおいておかれた方がいいというのはそういう意味です。
私たち大人が出来ることは、まあ岸壁で大声で叫んで「帰っておいでー」って言うしかありません。彼らに成り代わって船に乗ってはなりません。
彼らは彼らの問題を最後まで自分の問題として考えていく。ただ胸を貸し、側で見ていてあげて、「私が見てるよ、見守っているから行ってごらん」って言う。そういう母港の人がいれば随分思春期は力づけられます。

そして、次の三幕、皆さんも通って来られて、どうぞ目をつむってご自分の10代を思い返してみて下さい。
そして、二十歳になりました。社会的変化がきます。これは成人式です。
まあよく物議をかもしてますけどね。20歳生きた時、どんな人も日本という社会では、成人と認めます。中身を決して問いません。そして、この日をもって選挙権がきます。お酒やたばこも自由です。そして、言論も宗教も結婚も職業も何も自由です。日本という国はね。
すべての国がそういう訳ではありませんが、ま、多くの先進諸国はそうですね。つまり、自立する、一人で生きられる訳です。
自分の自由を右手に持って立ち上がる訳です。「さあー生きていくぞ」と。
私の思うように生きていくよということが、これを本航海と私はイメージします。今までの港の内のね、試験航海を終えていよいよ本航海です。皆さんもある日、外へ社会へ参加されたと思います、自立して。
そしてもうひとつ、片手に自立、片手に共存、人と共に生きるというテーマに必ず遭遇します。
海というのは社会ですからね、社会にはもうひたひたと人がいて、必ず誰か共に生きる、共に生きることから逃げ出す訳にいかないんです。これもう諦めるしかないんです。
人間は生きていく上に、人と共に生きていくしかない、これを共存といいます。

この二つの力が、実は20年間に基礎作りをしておかないと、20歳になってあなたは一人です。究極一人なんだよ、ということを受け入れられないと不幸です。
もちろん、助けを上手にもらうというは、賢さで十分あり得るんですが、究極主人公は自分ですからね。自分の人生は究極自分で越えていくしかない。そのことを思うと、孤独を飼い慣らさないと駄目ですし、だから、思春期の孤独が意味がある訳です。
ここで孤独を飼い慣らして、自分を守るということを知って自立していく力を持ってほしい。
それから、思春期で人恋しくて親友が出来たり、仲間とワーワー騒いだり、また、仲たがいをして辛い苦しい苦い別れの経験もしたり、この人だけは捨てられないと思って自分のプライドを捨てて仲直りをしたり、そういう経験を思春期の間、うんとしておくことです。
そうしておくと、成人式を迎えたあとの人生、いよいよ本航海の船長ですからね。自分の人生の航海日誌をつける訳です。責任をもって、自分の人生の主人公と して生きる時に、人を愛し人と共に生きる。誰か恋人ができたら結婚したり、そして親になって子どもと共に生きるとか、職業を持って社会の中で共に働くと か、あるいは同じ地域に住んで一緒にその地域のルールを守りながら生きるとか、これ共存といいます。
これが出来ないと三幕は悲惨なものになります。としますとね、人生は三幕を生きるために二幕があるんです。二幕を生きるために一幕が準備期間なんです。というふうに、長―いライフスパンで眺めて準備しておくことです。

これが「子どもが育つみちすじ」という私の人生を通した考え方として、最初に申し上げたかった訳ですが、子どもの時間、まず一幕にもう一度返りますと、子どもの時間というのを書いてますね。今日の一番最大テーマがここであります。だいたい10年ほどあります。
皆さんの、保育をなすってらっしゃる方は目の前のお子さんたち、0歳、1歳、2歳、6歳まで。
お母さんやお父さんであれば、ご自分のお子さんが小学校を卒業するくらいまでところ、いろいろご相談に応じる方も、小学校卒業ぐらいまでの子どもの問題と いうのは、まず、おませな子も少々のんびりした子もいろいろあると思いますが、子どもは子どもです。子どもの時間を生きています。
つまり、大人が母港にいて子どもを包み込むことです。守ることです。究極「私があなたを守ってあげる」…

第5回講演会 子どもが育つみちすじ③

そしてその伸びるもとになるものは、すべて自分が持ってきた物です。これ以外何も有りません。
私たちが生まれてきた時のミクロの世界のような受精卵の中に、すべての可能性を内蔵しているんですね。そう思うと面白いですね。そして、何か外からの刺激 や何かによって目覚めて立ち上がっていく、と思いますと、50になっても60になっても70になっても、今までの自分に見えなかったものが見えてくるという。

これは、私は生涯人間発達論という本を書き、大学で講義をしてますが、60時間ほど熱心に熱をこめて語る講義時間なんですけれど、それをまあ短い5,60 分でするとなかなか難しいことでございますが、私にとりますと自分自身の人生を思い返して、様々な失敗や間違いや挫折や欠点や、それこそ思いがけない傷だ とかもいっぱい起こっていく中で、尚、今の自分があって、そして今の自分は他の人の比較ではありません。

自分個人の人生を考えます時に、今生きている自分は、過去の自分の総決算ですね。全部そういう痛みも苦しみも、有頂天な時も大成功もみんな含めて、今の自 分があって、そしてその自分をもって今日生きると、明日の自分がある。また、明日生きていると思いますと、人生というのは一日生きると一日分何かが起こる かもしれないというふうに思い、私は一生涯が発達のプロセスと信じて疑いません。

20歳で発達が終わるのでなくて、可能性が内側に秘められていて、それが何の時に見え、外に、表面に出てきて、そしてそれが勢いよく広がっていく、という のをdevelopment(ディベロプメント)というならば、いくつになろうともそのチャンスはあると思います。で、そういうふうに考えますと、一生涯 が発達のプロセスですので、0歳から始まりましてすーっと一方性ですね。

必ず人生というのは法則がありまして、えー一方性・・・一つの方向に向かうしかない、引き返すこと出来ませんね。一度過ぎたものは二度と生きる訳にいかない。一過性といいます。
人生というのはやり直しが効くとよく言いますが、聞きますけれども、それは今から効くだけで、過去には戻れません。ですからそういう意味では、常に真剣勝負ですね。
今日を大切に生きておくというのは、そういう意味で大事だと思います。うかうかと過ごしてごめんなさい。「あのーあの時うっかりしたわ」っていうので、戻るわけにいきません。
しかし、今日から生きれば、明日になりあさってになり、今日生きた自分がこんどは自分の過去の大切な時間として自分の宝になりますから、というふうに考えていきますとね、人生は三幕のドラマ仕立てになると思うんです。

これは、私が言ってるだけで誰も言ってる訳ではありません。私の言葉です。
人生は三幕のドラマと、私には思えてならないのですが、それはあの、ちょうどね劇場に行きますと、何かのドラマがあって、一幕、二幕、三幕ものっていうようなのがありますね。

それは幕あいがあって、大きく舞台装置が変わったりします。そのために節目の川を渡るところでちょっと一息入れて、そして、新たな場面が出てくるという、そういうイメージでお取り下さい。
別にあのこれが絶対10歳で、一日も過ぎたらこっち側でその前がこっち側、そんなこと言ってません、だいたいです。としますとね、皆さんの人生、今のお子 さんお育ての方、あるいは保育をしてらっしゃる子どもさんのことを考えていただいても結構ですし、それよりも何よりも皆さんご自分の人生、何子の生涯、何 男の生涯と自分の名前を上において、ドラマとしてお考え下さい。そうすると、一幕がまずありますね。

第一幕、子どもの時間。
これは体は子どもの時間です。もちろん、心理的社会的にも子どもです。で、子どもを満喫して子どもの時間を満喫して生きるのが一番素敵なことです。
早々とね先取りする必要ありません。二度とありませんから。これが約10年あります。で、子どもの時は言ってみれば、船を造るプロセスでいえば、母港で船を造るような時間です。こういう母港でね。

しっかりしたところを母港という。たとえば船で遠い海までお魚を捕りにいく遠洋漁業の方たちも、母港があるから出掛ける訳ですね。つまり母港、どんなに遠 くへ行っても母港がある。母港に帰れば必ず自分を待っている人がいて、自分のことを考えていてくれる人がいる。嵐がきたらみんな大急ぎで母港に帰って来 て、一番安全なところにいようと・・・こういうの母港と言います。私の好きな言葉ですが。丁度そこで育つ時間が一幕とお考え下さい。またあとで詳しくお話 します。

そして、船が出来ます。船が出来上がるまでは母港にいる。母港の人々はすべて母なるものです。親御さんとか学校の先生とかね。で、ここで守られる。私はもう守ってもらえるんだっていって、依存していますし、依存される親たち先生たちは、十分に保護する必要があります。

そして、いよいよ節目の川にさしかかるのが10歳ごろです。
これは、性の成熟という身体的変化です。これは、誰の上にも起こってきます。
そして、その川を渡りますと二幕になる。もう一幕は幕を閉じます。二度と帰れません。子どもの時間に帰ろうといっても帰れない訳です。で、これを私の専門とする思春期、青年期です。
思春期というのは、性の成熟の開始とともに始まるという定義があります。ですから、女の子の方が少し早いかもしれません。

10歳から12,3歳ころにふくよかな体になってだんだん乳房がでてきて、やがて女性らしい体格になりますね。そして初潮が始まります。12歳が今平均です。
ですから、小学校卒業するまでに半分の子どもが通過していきます。そして、みごとな女性の誕生ですね。成熟した女性の誕生です。
男の子は多少遅れて、12,3歳ごろから始まります。
急に背が伸びて男っぽい体になりますね。声変わりをしてひげが生えてきて、そして性器が大きくなって、やがて精痛現象が起こります。これをもってみごとな男の誕生、水際だった男です。
えー男性としての機能を証明してみせる訳ですね。これは間違いなく子どもの時間ではないです。
体が大人になる、性的に成熟する、もうこれはピークで、これ以上体は成熟出来ませんので、性の成熟をもってほぼ体の完成品になります。船が出来上がる訳です。…

第5回講演会 子どもが育つみちすじ②

子どもは素晴らしいものという思いを皆さんと共有させていただけたらいいなぁと思います。
先程ご紹介賜りましたが、私はずっと子どもと青年期の精神科医を本業として、細々ではございますが大学の教員も20年ほどしておりますので。細々ではございますが、でもずっと診療をしてまいりました。約40年になります。

たくさんの子どもたちや若者に出会って生きてきたなぁーと思いますし、一人一人の子どもや若者が生きていく姿から、たくさんのことを教えられました。そし てまた、その親御さんたちとの出会いで、あの親というものは、本当に切ないなぁーというような共有するものもございましたり、私は大変幸せな人間であった と今も、まあボツボツリタイヤを直前としながら自分の歩いてきた道を思い返します。

ご承知のように、今は子どもを育てることが非常に不安、不満、あるいは負担というような言葉をよく聞かされます。本当にそうだろう思います。核家族化、 少子化、少家族化、そして都会のようなところでは特に本当に孤独で、一人っきりで子どもを育てている若い親御さんたちたくさんいらっしゃいますのでね、追 いつめられたり、あるいは非常に子育てに重圧感を感じたり、中には本当に追いつめられた結果の虐待というような事例にも遭遇すること、私は本業でございま すからそういう非常に重い事例にもお会いすることが有る訳でございます。

で、本当に今こそ、私たちも子育ての終わったものも含めまして、あるいは社会が子育て中の親御さんに心をつなぎ合わせながらサポートしていくことがとても大事な時代を迎えたということをよく感じます。

ただ私は、本当に疲れている追いつめられた親御さんに、必要なだけ手助けをし心を癒し、あるいは力をエネルギーを充電して頂くために多くの力が注がれることが大切と思いますが、それは親御さんに元気になっていただいて、そして本当に子どもに出会っていただきたいんです。

時に、幼少期、子どもと親がどのように睦み合って、非常に親しい深い関わりをもつか、そのことが人生の土台になります。親の大変さ分かりますから、どうぞ 皆さん、それぞれのお立場で、必要なサポートだとか、あるいは心通い合わして励ましてあげてっていうのは大事だと思います。

そして、「子どもが育つみちすじ」という私のタイトルでございますが、今日はこの話をしながら、 特に、私のような思春期が専門の人間から見ますと、思春期でまず大きな試練の時が来ます。
試されるんですね、子ども期をどう生きたか?
子ども期が子ども期で結果が出るのではなくて、子ども期にどれだけ内なるものを育ててきたか?そして、思春期という嵐の季節に、子どもたちはそこを通り抜 けていく。随分多くの傷を負いますが、大方の子どもたちは、挫折を多かれ少なかれ体験しますし、それを少しも恐れることはないと、私は心の底から信じてま すが、ただ、思春期を通り抜けて、そのあとの長い大人になってその人の人生、物語を書く時間に、元気にたどり着いてもらいたい。で、そのための幼少期とい うふうに考えます時に、この私の「人生は三幕のドラマ」という、今日最初にお話ししたいことから話し始めたいというのはそういう訳でございます。

 

幼少期の話をご専門の方は幼児教育、あるいは保育のご専門の方は、幼児期の話が中心になるかと思いますが、私はあの思春期というところが専門で、思春期、 青年期にどちらかといえばお店を出しているような人間で、お客さんはほとんど10代の若者で、ま、そういう職業がらここで言いますと二幕ですが、二幕の話 から始めます。

つまり、皆さん、今お母さんお父さんでいらして、小さなあどけない子どもたち、6歳までの乳幼児期にいる子どもたちを育てていらっしゃいましょう。あるい は、保育士の先生やご相談に応ぜられる方も、最初の一幕のそれも最初の時間、ういういしい時間ですが、そこで悩んだり苦しんだり考えたり楽しんだりしてい ただく、それはもう素敵なことではありますが、実はここで何をしているか?

どのような人間性の発達が内側にです、外側ではなくて内側に、子どもたちになされているかが、二幕に大きく影響するというところから始めたいと思います が、人生は三幕のドラマ、人間の発達過程ということで、一生涯を発達のプロセスととるということを、まず最初に申し上げます。

つまり、成長発達というのは、多くの人はだんだん背が伸びていく、体が大きくなる。そして、言葉を話し、知的にも様々な機能がどんどん増大して、右肩上がりにね、どんどん、どんどん出来るようになるのが、成長発達の考えだと思います。

そうしますと、だいたい20歳で生物体というのは頂上を極めます。大山でもそうですね。
大変高い山で、一生懸命登り坂があって登りきる。もう本当に頂上に達した時の喜びの大きさ、ここまで生きてきたぞっていう、ここまで歩いて来たぞという喜 び、大きいと思いますが、しばらく頂上にいましても降りなければなりませんからね。ずっといる訳にはいきませんので、年齢的にいいますと、20代あたりが ピークで、生物体の生理的なレベルで考えますと、そこがもう最高の充実した時間で、やがて老化をしていきます。どんどん、どんどん衰えていきます。

もう、皆さんも、どんどん、どんどん下り坂で、恐縮ですが、もう私なんか60代も半ばになりますと、もうほとんど下のもう降りるところなくなるところまで降りて来ています。

で、そういう意味で言いますとね、発達というのはここで言いますと20歳までのはずだと、おかしいなぁとお感じになるかもしれませんが、実は発達の概念が何かということで、一生涯が発達のプロセスという訳ですが、多少大学の講義めいてまいりましたが、 発達というのは、ちょっと説明いたしますと、英語でdevelopment(ディベロプメント)という単語をよく当てはめます。あるいは英語のdevelopmentを発達と日本語に訳しますが、この言葉大変意味深い言葉なんですね。

もとの原義、最初にこの言葉が生まれてくる意味づけが、英語の字引を引いてみますと、大きなオックスフォード辞典あたりを引いてみますと書いてありますが、gradual(グラジュアル)、unholding(アンフォールディング)と書いてあります。

で、これはどういうことかっていうと、gradualというのは徐々に徐々にってことなんですね。ゆっくり、ゆっくり。一挙にはないんですね。徐々にとい う英語です「gradual」ゆっくり、ゆっくり、ゆっくり、ゆっくりね。決して早足ではない。しかし、しぶとくね、ずーっといつまでもというイメージが …

第5回講演会 子どもが育つみちすじ①

第5回講演会 子どもが育つみちすじ

講師:服部祥子先生

大阪人間科学大学人間科学部教授
精神科医師
厚生労働省 社会保障審議児童部会委員

主な著書
親と子―アメリカ・ソ連・日本      新潮選書
精神科医の子育て論           新潮選書
子どもが育つみちすじ          朱鷲書房
生涯人間発達論             医学書院
人を育む人間関係論           医学書院

(※著書にあるリンク先はそれぞれamazon.co.jpの該当ページです。)

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第4回講演会 支え合おう、子育てと自分育て

第4回講演会 支え合おう、子育てと自分育て

講師:広岡守穂先生

中央大学  教授
専門 政治学
最近のテーマは男女共同参画とNPO

主な著書
男だって子育て 岩波新書
妻が僕を変えた日 フレーベル社
自分さがしの旅 北國新聞社
豊かさのパラドックス 講談社現代新書
父親であることは哀しくも面白い 講談社

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講演の概要

5人のお子さんを育ててこられた、広岡守穂先生ご夫妻に実体験にもとづいた、楽しく、 そして考えさせられる子育てのお話を聞かせてもらいました。まず、奥様で、石川県議会議員の広岡立美さんと交互に子育てを振り返られ、子育て中の妻と夫の意識の違いを話されました。

「自分ががんばって、妻子を養っているんだ」 、「妻はこんなかわいい子供たちと一日中一緒で幸せに違いない」、「休日には動物園などに行って、帰りにファミリーレストランで食事でもすれば、妻にとっ て気晴らしになるし、きっと楽しいにちがいない」、「皿洗いの大部分を手伝ったのだから、少しくらい残しておいてもいいだろう」などの夫の言い分に対し て、妻の言い分にはまったく違ったものがあります。

「私だけ社会から離れ子供たちと一日中向かい合っていると自分が干からびていきそう」、「休日に小さい子供を5人もつれて出かけるのは大変。子供の着替え や飲み物を用意して出かけ、外出先で走り回る子供たちの世話をするのは結局、私なのよ。帰りに食事をするときも子供は走り回り、食べた気がしない」、「家 事や育児を手伝うなら、ちゃんと最後までしてよ」などです。

さまざまなエピソードの後、「子供を育てていくということは、夫婦がそれぞれを育てること。夫婦がお互いに自分を育てる自分育てを助けることが大切なのだ」ということに気づかれたそうです。

後半では、お子さんが成長されていく中でのエピソードを話されました。自由でのびのびしたご夫婦の子育ての中でも、さらにお子さんに驚かされることが少 なくなかったそうです。そしてその中で、「親の見知らぬところで、子供は自分というものを育てている。子供を育てていくと、その子供の中の親の知らない部 分と出会っていくことができる」ということに気づかれたそうです。

この講演を聴いて、夫婦、親子、そして家族にとって、お互いにきちんと向かい合い理解しあうこと、そしてお互いの自分育てを支えあうことが大切だと思いました。

-講演の感想-

  • 土曜日の講演会はとても新鮮なお話でびっくりする事の多い内容でした。少しは父親の事が理解出来たかなあと思っています。
  • 土曜日は初めて講演会に参加させてもらいました。今回はいがいにもお父さんのほうが「聞いてみたい」と言ったので、二人で参加することになりました。帰ってから「いい話だった。」と満足そうでした。お互いに勉強になったんじゃないかと思います。
  • 土曜日の広岡先生の講演はとても楽しくあっという間の2時間でした。主人は途中で帰ってしまいましたが、何か感じるものがあったようです。私は先生のファンになってしまいました。
  • 広岡先生の講演会良かったです。体験談に基づいた話だったので、これから育児に役立てる気がしました。今は時間に追われる毎日ですが、話を聞いてますます優しいお父さんになりました。