第7回子育てひろば21委員会講演会 演題 「子どもの発達と保育-自己の育ちを支えるには―」
平成18年3月18日(土曜日)
明治学院大学心理学部教授
藤崎 眞知代 先生
1.赤ちゃんの世界
まず、最初に赤ちゃんの世界ですが、保育園では0歳から就学前の子どもさんを保育していらっしゃるので、日常のお仕事のなかで赤ちゃんの一人ひとりの個人差を実感されていることかと思います。私が学生の頃に、受身的と捉えられてきた赤ちゃんが、赤ちゃんなりの有能さをもった存在であると、一般的に理解され、そのように捉えられるようになりました。その背景にはレジメにありますように、赤ちゃんの意識レベルを区別して見ると、色々な能力を赤ちゃんなりに持っていることが分かってきたのです。
意識レベルは睡眠と覚醒の2つに大きく分けられます。さらに睡眠の中にも深い眠りと浅い眠りの状態に、覚醒には静かな覚醒と活発な覚醒と泣きの3つの状態に、あるいは睡眠と覚醒の中間に身体は起きていますが意識は眠っている半覚醒、半睡眠という状態(よく大学の授業中にみられますし、私も会議になると(笑)、立場が変わるとこういう状態になってしまいますが)を含めて6つの状態に分類する方もいらっしゃいます。この「静かに覚醒している」状態で、赤ちゃんは色々な刺激を捉えて反応を返してくれることが分かってきたわけです。これはアメリカの赤ちゃんの写真ですが、深~く良く眠っていて呼吸のリズムも規則的で、どんな音がしても呼吸の乱れない深い眠りから、夢を見ていてちょっと音がすると体を動かしたり、呼吸が不規則になる浅い眠りの状態、こっちは目を閉じていて、こっちは目を開けてる半覚醒半睡眠の状態から、泣きの状態、それに対して両目を静かにパッチリ開けて外を見ている、この状態のときに色々な刺激を与えると、それに対して的確に応えてくることから、最初にお話しました「有能な赤ちゃん観」という捉え方がなされるようになっていったわけです。
これは静かに覚醒している状態の赤ちゃんに、赤いボールを20cm位のところに示して左右に動かすと、目で追うだけでなく首を動かしてまで追っていく、物を目で追う反応が見られます。保育士の方が移動すると、その姿を目で追うなどは日常的に見られます。それから頭を支えないで手を引っ張って持ち上げたときに、首から肩を緊張させてゆき、最後にはしっかりと自分で起き上がり、自分で頭を持ち上げます。この姿勢は生まれたときの成熟度にもよりますが、こういった身体的な面での成熟に加えて、特に保育という場面では人への感心がとても早い時期から示されていきます。その1つが「談話のリズムへの同期性」とレジメには示してありますが、生後数日の新生児に、アメリカの赤ちゃんですので生の母国語の英会話を聞かせる、テープに録音した英会話を聞かせる、或いはテープに録音した母国語ではない中国語の会話を聞かせることをしますと、何語であっても人と人との会話のリズムに合わせて身体を動かしたり、頭を少し前後させたりという動きが見られます。それに対して規則的な机を叩く音に対しては、音に合わせて身体を動かすことは見られません。生まれて間もない赤ちゃんではありますが、人の会話のリズムに反応するといった人に志向している特徴を持って生まれてきていることが、「談話のリズムへの同期性」から示されます。
また、これは人の顔図形を1ヶ月と2ヶ月の赤ちゃんに見せたときに、どこに注目するか、瞳の動きを追ったものです。1ヶ月の赤ちゃんですと最初はお母さん顔の下、顎の当たりを見ているのですが、す~と頭の上の方から周辺部を見てから、目に視線を移動していきます。それが2ヶ月になりますと顔の周辺部ではなくて、目に注目します。赤ちゃんに向かうときにはよく目が動きます。表情も能面のような顔で赤ちゃんに接する方は少なく、自然とにこやかに口を動かして話かけます。目の白と黒のコントラスト、そしてよく動く口元、そういった顔の内部、人とコミュニケーションするときに大事な目と目のコンタクトですとか、会話に用いる部分に注目していく様子が2ヶ月の時点で特徴的に見られてきます。また、これは新生児1ヶ月での赤ちゃんの特徴ですが、大人の表情の模倣も既に見られます。
それからもう1つ別の視点から、これはおしゃぶりの絵ですが、普通はこの部分を口の中に入れ心地良い感覚を経験するようにつるつるになっていますが、これはいぼがあり、いぼいぼおしゃぶりと呼ばれます。このいぼいぼのおしゃぶりを赤ちゃんには暗闇で口の中に含ませます。ですから実物は見ていません。次に今度は明るい部屋で、いぼいぼおしゃぶりとすべすべおしゃぶりを同時に赤ちゃんに見せてどちらに注目するか見てみますと、いぼいぼおしゃぶりの方に注目するのです。既に口の中で触覚として経験したそのものを見るのです。これは触覚で得た情報を目で見たときに視覚的に捉え、触角と視覚という異なる感覚器からの情報を統合していく感覚間の協応と言われています。私たちは目で見て、そのものを取ろうとして手を伸ばすとか異なる感覚器官の働きを統合して色々な行動を獲得していきます。そういった統合する力が生後1ヶ月の時点で見られるのです。さらに、もう一つ有能性さの例をあげてあります。それはモノの永続性の理解です。ものが見えなくなると世の中には存在しないと思ってしまったのが、見えなくなったものを一生懸命探すというのは、見えなくてもその物があり続けていることを理解したからこそできる行為です。この物の永続性の理解は9ヶ月位であると、有名な心理学者のピアジェの研究では言われていました。目の前で遊んでいたものをハンカチとか布で隠してしまうと、もうその物が無かったかのように赤ちゃんの注意が反れてしまうということなどからからです。しかし、現在では3ヶ月位には見られる、理解していることが示されています。それは赤ちゃんがびっくりするとその刺激を凝視するという行動を指標としたときに、もっと早いことが分かってきました。これがその1つの実験場面ですが、小さい人参と大きい人参が、こういう衝立つの後ろを通るというときに、小さい人参も大きい人参も一旦見えなくなって、また見えてきます。この様子を赤ちゃんはごく普通の表情で見ていました。次に衝立の形をこの様にここの部分をカットしたんですね。そうしますと、小さい人参の方は背丈より下ですので、先ほどと同様に一旦見えなくなり、また見えてくる様子を赤ちゃんは普通の表情で見ていました。次に、この大きい人参について、この衝立の裏を通ったときに見えなくなるようにし、またここで見えてくるように操作したときに、赤ちゃんはとてもびっくりして凝視しました。このことから、大きい人参はこの衝立の裏を通った場合には見え続けているはずだということを、赤ちゃんは理解していると分かったのです。びっくりして凝視するという幼い赤ちゃんでも良く見られる行動を指標にした時に、モノの永続性の理解は9ヶ月どころか3ヶ月の時点で見られたのです。この話を子育て支援にいらしている0~2歳のお子さんがいるお母さまたちにお話した時に、ちょうど3ヶ月のお子さんのいるお母さんが、「ちょっと席を立つとすごく捜して泣くことが最近よくあって、どうしたのかな?って思っていらしたのですが、今日の話を聞いてモノの永続性が理解できるようになったことで、私を一生懸命追いかけているんですね」とおっしゃっていました。本当に、生まれて1ヶ月、2ヶ月、3ヶ月といった時点でも、実に色々な力を持っていて、まわりの世界を取り込もうとしていますし、周りの人に働きかけています。どういう面で外に働きかけているのかは一人ひとりの子どもさんによって違いますが、それをきちっと受けとめて返していってあげるってことがとても大切だと思います。特にこういう施設で産休明けくらいから預けられる子どもさんの保育を考えていくときに、その保育の内容のなかで、赤ちゃんの力を大事に受け止めていって頂きたいと思っています。これが1番目の赤ちゃんの世界という部分になります。
2.集団のなかでの発達
次にお話はちょっと飛びますが、集団生活のなかでの発達を考える前提に、最初に有能さの例としてもお話しました生まれながらにして人に志向するという面は強くありますし、人として生まれて人になっていくのは人との関係のなかではぐくまれていくということがあります。そういった人との関係のなかで子どもは発達していくこと、発達するのは子どもだけではなく、子どもと関わる保護者、お父さんやお母さん、そして保育者も子どもとともに発達していくという意味から、それでは保護者にとっても、保育者にとっても、一人ひとりの子どもにとっても、人それぞれの自己実現のありようを探ることが大事になってきます。一人ひとり年代も違う、ここにいらっしゃる保育者の方も色々な年代の方がいらしゃいますが、それぞれの人生のなかで、今の年代で保育に携わっておられることがご自分自身にとって、どのような意味があるのかということを探るためには、1つにはメイという人の3つの世界という考え方が参考になるのではないかなと思います。
そのメイの考えといいますのは、人というのは「3つの世界を生きている」のだということです。実存主義の臨床をなさってきている人ですけれども、人間の実存の仕方としてまわりの世界とともにある世界と独自の世界、この3つの世界に人は生きているというのです。まわりの世界というのはまさに自分を取り巻く周囲の世界とか、自然の世界を指しています。自然とどのように自分は関わっているのか、周りとどのように関わっているのかということです。子どもの生活あるいは私たちの生活を考えた時に、自然との触れ合いがすぐにイメージされます。まわりの世界を自然との触れ合いとして考えたときに、こちらには沢山の田圃があって、畑もあるという環境ですが、そういった自然があれば自然と触れ合っているかというと、必ずしもそのようには言えません。あるいは、私の明治学院大学というのは東京都港区のビルや高層住宅のなかにありますが、ビルに囲まれた生活のなかでは自然と触れ合えないかというと、そうでもないのです。ここに示してありますように、自然が身近に有るか無いかということではなくて、自然に対してどのような目、あるいは気持ちが向いているのか、ということが問われています。コンクリートの都内の園では園庭が屋上ということもありますし、広めのベランダだけの園もあります。でもそういった環境のなかに、どのように自然を持ち込んでいるのか、周りに畑とか緑があっても、それが背景になってしまっていないかどうか、自分たちが日々の自然の変化に本当にどれだけ目を向け気持ちを向けているのかどうかが、このまわりの世界、自然との関わりとして問われているわけです。それは自分と自然とのかかわりだけでなく、子どもたちどのような自然との触れ合いを用意していこうとするのか、保育者としての自然への向き方にも反映していくものだと思います。
2番目のともにある世界といいますのは、ともですのでまさに人間同士の相互関係の世界を指しています。同じ子どもさんでも相手によって自分を発揮できるときもあれば、ちょっと引っ込んてしまう、黙ってしまう、というように相手によって人との関わりは違います。相手によって関わり方が異なり、相手によって独特の関係が形成されていくわけです。そういう一人ひとりの子どもさんが、自分らしさというものを、どのような相手に、どのような場面で発揮できているのか、そして、ただのお友だちから、とても親しみを持ったお友だちなど、友だちから親友といった仲間に対する親しみの気持ちの深まりを、どのように保育のなかではぐくんでいくのかということが、ともにある世界への援助として問われてきます。
グループを変えてみたり、お昼の時の席が隣になるように何げなく仕向けていくとか、波長の合いそうな子どもさん同士が遊べるようなセッティングを保育者の方で準備するといったことが、子どもさんのともにある世界の広がりにつながっていくと思います。
3番目の独自の世界といいますのは、人と一緒にいるだけでなくて、人との触れ合いを通して、さらに自分を知っていくことにもなり、自分独自の世界をもつことを指します。一人ひとりの子どもが、いったい今日、何をしたいのか、何をするのが楽しいのか、何が苦手で何が得意なのかというように、自分に向き合って自分の特徴に気づいていくことに基づいて、ひとりの人間としての独自性が子どもなりに、年中なら年中、年少さんなら年少さんのその年齢なりに、自分の独自性を掴んでいくような、そういった働きかけが大事になってきます。今日の講演のサブタイトルに「-自己の育ちを支えるには-」と書かせて頂きましたが、ともにある世界も、まわりの世界、自然との触れ合いも大事ですが、でもその根底にある自分自身の自己をはぐくむことが、特に私は大事だなと思っています。
独自の世界のありようが現実世界を見る基盤にもなっていきますし、人との関わりを持つ際の基盤にもなっていくということでは、その集団生活に入ってきたときに、まず一人で安心して過ごせる、そして保育者との間でやりとりができ、保育者に対しては自分の願いをちゃんと表現できるようになり、さらに保育者を介してお友だちとも触れ合っていく、といった広がりのなかで、さらにまた自分に戻っていくことになります。集団生活は共にある世界との出会いだけに、ややもするとお友だちと遊べないとか、お友だちがいないことを保護者の方は気になさるし、保育者の方もちょっと一人で浮いてる、ポツンとしていることに気を止めることが多いかと思いますが、一人でいる姿が、お友だちもいるなかで一人でいるのか、友だち関係がないままにただ一人ポツンとしているのか、そういったところを見極めながら、保育者との関係、お友だちとの関係、さらには自分自身とちゃんと向き合うように少し揺さぶっていく…といった働きかけも必要になってくるのではないかと思っています。…