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4.子育てひろば21活動

第7回子育てひろば21委員会講演会 演題 「子どもの発達と保育-自己の育ちを支えるには―」

平成18年3月18日(土曜日)

明治学院大学心理学部教授
藤崎 眞知代 先生


1.赤ちゃんの世界

まず、最初に赤ちゃんの世界ですが、保育園では0歳から就学前の子どもさんを保育していらっしゃるので、日常のお仕事のなかで赤ちゃんの一人ひとりの個人差を実感されていることかと思います。私が学生の頃に、受身的と捉えられてきた赤ちゃんが、赤ちゃんなりの有能さをもった存在であると、一般的に理解され、そのように捉えられるようになりました。その背景にはレジメにありますように、赤ちゃんの意識レベルを区別して見ると、色々な能力を赤ちゃんなりに持っていることが分かってきたのです。

意識レベルは睡眠と覚醒の2つに大きく分けられます。さらに睡眠の中にも深い眠りと浅い眠りの状態に、覚醒には静かな覚醒と活発な覚醒と泣きの3つの状態に、あるいは睡眠と覚醒の中間に身体は起きていますが意識は眠っている半覚醒、半睡眠という状態(よく大学の授業中にみられますし、私も会議になると(笑)、立場が変わるとこういう状態になってしまいますが)を含めて6つの状態に分類する方もいらっしゃいます。この「静かに覚醒している」状態で、赤ちゃんは色々な刺激を捉えて反応を返してくれることが分かってきたわけです。これはアメリカの赤ちゃんの写真ですが、深~く良く眠っていて呼吸のリズムも規則的で、どんな音がしても呼吸の乱れない深い眠りから、夢を見ていてちょっと音がすると体を動かしたり、呼吸が不規則になる浅い眠りの状態、こっちは目を閉じていて、こっちは目を開けてる半覚醒半睡眠の状態から、泣きの状態、それに対して両目を静かにパッチリ開けて外を見ている、この状態のときに色々な刺激を与えると、それに対して的確に応えてくることから、最初にお話しました「有能な赤ちゃん観」という捉え方がなされるようになっていったわけです。

これは静かに覚醒している状態の赤ちゃんに、赤いボールを20cm位のところに示して左右に動かすと、目で追うだけでなく首を動かしてまで追っていく、物を目で追う反応が見られます。保育士の方が移動すると、その姿を目で追うなどは日常的に見られます。それから頭を支えないで手を引っ張って持ち上げたときに、首から肩を緊張させてゆき、最後にはしっかりと自分で起き上がり、自分で頭を持ち上げます。この姿勢は生まれたときの成熟度にもよりますが、こういった身体的な面での成熟に加えて、特に保育という場面では人への感心がとても早い時期から示されていきます。その1つが「談話のリズムへの同期性」とレジメには示してありますが、生後数日の新生児に、アメリカの赤ちゃんですので生の母国語の英会話を聞かせる、テープに録音した英会話を聞かせる、或いはテープに録音した母国語ではない中国語の会話を聞かせることをしますと、何語であっても人と人との会話のリズムに合わせて身体を動かしたり、頭を少し前後させたりという動きが見られます。それに対して規則的な机を叩く音に対しては、音に合わせて身体を動かすことは見られません。生まれて間もない赤ちゃんではありますが、人の会話のリズムに反応するといった人に志向している特徴を持って生まれてきていることが、「談話のリズムへの同期性」から示されます。

また、これは人の顔図形を1ヶ月と2ヶ月の赤ちゃんに見せたときに、どこに注目するか、瞳の動きを追ったものです。1ヶ月の赤ちゃんですと最初はお母さん顔の下、顎の当たりを見ているのですが、す~と頭の上の方から周辺部を見てから、目に視線を移動していきます。それが2ヶ月になりますと顔の周辺部ではなくて、目に注目します。赤ちゃんに向かうときにはよく目が動きます。表情も能面のような顔で赤ちゃんに接する方は少なく、自然とにこやかに口を動かして話かけます。目の白と黒のコントラスト、そしてよく動く口元、そういった顔の内部、人とコミュニケーションするときに大事な目と目のコンタクトですとか、会話に用いる部分に注目していく様子が2ヶ月の時点で特徴的に見られてきます。また、これは新生児1ヶ月での赤ちゃんの特徴ですが、大人の表情の模倣も既に見られます。

それからもう1つ別の視点から、これはおしゃぶりの絵ですが、普通はこの部分を口の中に入れ心地良い感覚を経験するようにつるつるになっていますが、これはいぼがあり、いぼいぼおしゃぶりと呼ばれます。このいぼいぼのおしゃぶりを赤ちゃんには暗闇で口の中に含ませます。ですから実物は見ていません。次に今度は明るい部屋で、いぼいぼおしゃぶりとすべすべおしゃぶりを同時に赤ちゃんに見せてどちらに注目するか見てみますと、いぼいぼおしゃぶりの方に注目するのです。既に口の中で触覚として経験したそのものを見るのです。これは触覚で得た情報を目で見たときに視覚的に捉え、触角と視覚という異なる感覚器からの情報を統合していく感覚間の協応と言われています。私たちは目で見て、そのものを取ろうとして手を伸ばすとか異なる感覚器官の働きを統合して色々な行動を獲得していきます。そういった統合する力が生後1ヶ月の時点で見られるのです。さらに、もう一つ有能性さの例をあげてあります。それはモノの永続性の理解です。ものが見えなくなると世の中には存在しないと思ってしまったのが、見えなくなったものを一生懸命探すというのは、見えなくてもその物があり続けていることを理解したからこそできる行為です。この物の永続性の理解は9ヶ月位であると、有名な心理学者のピアジェの研究では言われていました。目の前で遊んでいたものをハンカチとか布で隠してしまうと、もうその物が無かったかのように赤ちゃんの注意が反れてしまうということなどからからです。しかし、現在では3ヶ月位には見られる、理解していることが示されています。それは赤ちゃんがびっくりするとその刺激を凝視するという行動を指標としたときに、もっと早いことが分かってきました。これがその1つの実験場面ですが、小さい人参と大きい人参が、こういう衝立つの後ろを通るというときに、小さい人参も大きい人参も一旦見えなくなって、また見えてきます。この様子を赤ちゃんはごく普通の表情で見ていました。次に衝立の形をこの様にここの部分をカットしたんですね。そうしますと、小さい人参の方は背丈より下ですので、先ほどと同様に一旦見えなくなり、また見えてくる様子を赤ちゃんは普通の表情で見ていました。次に、この大きい人参について、この衝立の裏を通ったときに見えなくなるようにし、またここで見えてくるように操作したときに、赤ちゃんはとてもびっくりして凝視しました。このことから、大きい人参はこの衝立の裏を通った場合には見え続けているはずだということを、赤ちゃんは理解していると分かったのです。びっくりして凝視するという幼い赤ちゃんでも良く見られる行動を指標にした時に、モノの永続性の理解は9ヶ月どころか3ヶ月の時点で見られたのです。この話を子育て支援にいらしている0~2歳のお子さんがいるお母さまたちにお話した時に、ちょうど3ヶ月のお子さんのいるお母さんが、「ちょっと席を立つとすごく捜して泣くことが最近よくあって、どうしたのかな?って思っていらしたのですが、今日の話を聞いてモノの永続性が理解できるようになったことで、私を一生懸命追いかけているんですね」とおっしゃっていました。本当に、生まれて1ヶ月、2ヶ月、3ヶ月といった時点でも、実に色々な力を持っていて、まわりの世界を取り込もうとしていますし、周りの人に働きかけています。どういう面で外に働きかけているのかは一人ひとりの子どもさんによって違いますが、それをきちっと受けとめて返していってあげるってことがとても大切だと思います。特にこういう施設で産休明けくらいから預けられる子どもさんの保育を考えていくときに、その保育の内容のなかで、赤ちゃんの力を大事に受け止めていって頂きたいと思っています。これが1番目の赤ちゃんの世界という部分になります。

2.集団のなかでの発達

次にお話はちょっと飛びますが、集団生活のなかでの発達を考える前提に、最初に有能さの例としてもお話しました生まれながらにして人に志向するという面は強くありますし、人として生まれて人になっていくのは人との関係のなかではぐくまれていくということがあります。そういった人との関係のなかで子どもは発達していくこと、発達するのは子どもだけではなく、子どもと関わる保護者、お父さんやお母さん、そして保育者も子どもとともに発達していくという意味から、それでは保護者にとっても、保育者にとっても、一人ひとりの子どもにとっても、人それぞれの自己実現のありようを探ることが大事になってきます。一人ひとり年代も違う、ここにいらっしゃる保育者の方も色々な年代の方がいらしゃいますが、それぞれの人生のなかで、今の年代で保育に携わっておられることがご自分自身にとって、どのような意味があるのかということを探るためには、1つにはメイという人の3つの世界という考え方が参考になるのではないかなと思います。

そのメイの考えといいますのは、人というのは「3つの世界を生きている」のだということです。実存主義の臨床をなさってきている人ですけれども、人間の実存の仕方としてまわりの世界ともにある世界独自の世界、この3つの世界に人は生きているというのです。まわりの世界というのはまさに自分を取り巻く周囲の世界とか、自然の世界を指しています。自然とどのように自分は関わっているのか、周りとどのように関わっているのかということです。子どもの生活あるいは私たちの生活を考えた時に、自然との触れ合いがすぐにイメージされます。まわりの世界を自然との触れ合いとして考えたときに、こちらには沢山の田圃があって、畑もあるという環境ですが、そういった自然があれば自然と触れ合っているかというと、必ずしもそのようには言えません。あるいは、私の明治学院大学というのは東京都港区のビルや高層住宅のなかにありますが、ビルに囲まれた生活のなかでは自然と触れ合えないかというと、そうでもないのです。ここに示してありますように、自然が身近に有るか無いかということではなくて、自然に対してどのような目、あるいは気持ちが向いているのか、ということが問われています。コンクリートの都内の園では園庭が屋上ということもありますし、広めのベランダだけの園もあります。でもそういった環境のなかに、どのように自然を持ち込んでいるのか、周りに畑とか緑があっても、それが背景になってしまっていないかどうか、自分たちが日々の自然の変化に本当にどれだけ目を向け気持ちを向けているのかどうかが、このまわりの世界、自然との関わりとして問われているわけです。それは自分と自然とのかかわりだけでなく、子どもたちどのような自然との触れ合いを用意していこうとするのか、保育者としての自然への向き方にも反映していくものだと思います。

2番目のともにある世界といいますのは、ともですのでまさに人間同士の相互関係の世界を指しています。同じ子どもさんでも相手によって自分を発揮できるときもあれば、ちょっと引っ込んてしまう、黙ってしまう、というように相手によって人との関わりは違います。相手によって関わり方が異なり、相手によって独特の関係が形成されていくわけです。そういう一人ひとりの子どもさんが、自分らしさというものを、どのような相手に、どのような場面で発揮できているのか、そして、ただのお友だちから、とても親しみを持ったお友だちなど、友だちから親友といった仲間に対する親しみの気持ちの深まりを、どのように保育のなかではぐくんでいくのかということが、ともにある世界への援助として問われてきます。

グループを変えてみたり、お昼の時の席が隣になるように何げなく仕向けていくとか、波長の合いそうな子どもさん同士が遊べるようなセッティングを保育者の方で準備するといったことが、子どもさんのともにある世界の広がりにつながっていくと思います。

3番目の独自の世界といいますのは、人と一緒にいるだけでなくて、人との触れ合いを通して、さらに自分を知っていくことにもなり、自分独自の世界をもつことを指します。一人ひとりの子どもが、いったい今日、何をしたいのか、何をするのが楽しいのか、何が苦手で何が得意なのかというように、自分に向き合って自分の特徴に気づいていくことに基づいて、ひとりの人間としての独自性が子どもなりに、年中なら年中、年少さんなら年少さんのその年齢なりに、自分の独自性を掴んでいくような、そういった働きかけが大事になってきます。今日の講演のサブタイトルに「-自己の育ちを支えるには-」と書かせて頂きましたが、ともにある世界も、まわりの世界、自然との触れ合いも大事ですが、でもその根底にある自分自身の自己をはぐくむことが、特に私は大事だなと思っています。

独自の世界のありようが現実世界を見る基盤にもなっていきますし、人との関わりを持つ際の基盤にもなっていくということでは、その集団生活に入ってきたときに、まず一人で安心して過ごせる、そして保育者との間でやりとりができ、保育者に対しては自分の願いをちゃんと表現できるようになり、さらに保育者を介してお友だちとも触れ合っていく、といった広がりのなかで、さらにまた自分に戻っていくことになります。集団生活は共にある世界との出会いだけに、ややもするとお友だちと遊べないとか、お友だちがいないことを保護者の方は気になさるし、保育者の方もちょっと一人で浮いてる、ポツンとしていることに気を止めることが多いかと思いますが、一人でいる姿が、お友だちもいるなかで一人でいるのか、友だち関係がないままにただ一人ポツンとしているのか、そういったところを見極めながら、保育者との関係、お友だちとの関係、さらには自分自身とちゃんと向き合うように少し揺さぶっていく…といった働きかけも必要になってくるのではないかと思っています。…

第6回講演会 子育てで大事なことって?~自分が大好きと言える子に~

~講演概要~

5月28日(土)、東京大学大学院教育研究科教授 汐見稔幸先生をお迎えして第6回の講演会を終えました。参加者約220人、ベアーズのホールに入りきれないほどの参加者でした。

“子育てで大事なことは~自分が大好きといえる子に~”をテーマにお話していただきました。お話の内容を少しだけお知らせします。子育てに大きく3つのポ イントをかがけてのお話。ユーモアを交え事例をあげながらわかりやすくお話して下さり、2時間30分があっという間でした。以下は園だより用に講演会のポイントをまとめたものです。

1つ目のポイント「子育ては親育ちでもある」について・・・

子育てをしていくことは同時に親が自分自身を育てているということ。赤ちゃんを産めばすぐ親になるというのではなく、親として子どもを育てているプロセ スの中で、少しずつ自分自身がうつわを大きくしていくのである。子どもが育つというのが半分、実は育てている親が育つのが半分なのである。赤ちゃんを“抱 く”ということひとつとっても、はじめは抱っこすることが怖い。それが半年ぐらい経つと“抱く”という行為を繰り返す中で、赤ちゃんの表情をみて、そのし ぐさで全部を感じとって「あぁこんなやり方はまずい、どういう言葉をかけて、どういう姿勢の時、気持ちがいいのか」がわかってくる。ここに親の育ちがあ る。子どもを育てるということは孤立した中て一人では育てられない。気軽に本音で話し合える人(夫であったり、友人であったり)を周りに作ることが必要で ある。そうすることによって子育てが楽になる。・・・・・というお話。この子を立派に育てるんだ!と頑張り過ぎず、“自分育て”と思って家庭と保育園と 一緒に子育てを楽しみましょう。

子育て2つ目のポイントについて・・・

2つ目のポイントは「子どもを善くみる」ということ。

子どもを善くみる能力を親自身が育てる。

見抜く能力を身につけることによって親として成長する。

日本人のお母さんが子どもに対して一番よく使う言葉は・・・・「早くしなさい!」

しかし、この言葉を使うことによって、早く出来るようになった例は一例もない。「早くしなさい」 という言葉の裏返しは、「おまえはグズな子」「おまえはダメな子」。「早くしなさい」という言葉を言い続けることによって「おまえはダメな子」というメッセージを送り続けているのと同じである。 子どもにとって、まわりの人の反応が“自分はどういう人間なのか”とみつめる鏡である。ならば、見守られている、愛されているというメッセージを送ることが大切である。 持って生まれた性格は簡単には変わらない。性格そのものを否定するような見方をせず、肯定的に善くみて、「いつも見守っているよ」「愛しているよ」というメッセージを送っていきましょう。

子育て3つ目のポイントについて・・・

3つ目のポイントは「体験することで感性を育てよう」ということ。 子どもを育てていくとき、あなたは、「頭のよい子」「こころが優しい子」「身体の丈夫な子」

どんな子どもを育てたいですか?という質問ではじまった3つめのポイント。

知識だけをどんどん詰め込めばたしかに頭のよい?子が育ちます。が、それは言葉をたくさん知っていて頭が良さそうに見えるだけ。たとえば、「森」を言葉で 知り、テレビや本の中で森を見ても本当に森を知ったことにならない。実際に森に行き、体で森を体験することで、はじめて「森」という言葉がどんなものを知 ることができる。

「心を育てる」のも同じ、心それだけを取り出して豊かにすることは出来ない。心を豊かにする体験をすることによって育つものである。たとえば、親切にして喜ばれたり親切にされて嬉しかったり・・・・。

本当に心豊かで賢い子に育てようと思うなら、いろいろな実体験をさせよう。

豊かな体験をすることによって、頭も、心も、身体も育つ。感性豊かに育むことができるのである。・・・・

汐見先生の講演会の様子は今回で終わりです。

次回のテーマは?お楽しみに!!

職員の感想文集です。

NO.1

「 講演の中で子育ての秘訣を聞き、子どもを善く見る能力を身に付けると言われたことがとても心に残りました。すぐにできそうですが、子どものいけないところや気になることばかりが目につき、実際、善い所というのは意識してみて、言葉にしてみないとなかなかできないことだと思います。日々意識して一人ひとりの善いところを見つけ、声をかけるよう心掛けてはいますが、まだまだ一人ひとりの子ども自身を見切れていないと反省する毎日です。禁示や命令口調ではなく、子どもが自信を持って行動できるような言葉掛けをしなければと改めて感じました。
もうひとつは体を育てる、いろいろな体験をすることが大切と言うのにとても共感がもてました。自分でいろいろなことを体験し、学び、同時に心も育って欲しいと思います。また、安心してできるよう、遠くで見守ったり時にはサポートしたり環境を設定したりし、成長していって欲しいなと感じました。
最後に、子育ては親育ちと言われ、そうだなぁと改めて感じましたが、母親が一人で抱え込まないよう、保育者も支援していかなければならないと思いました。また、保護者が安心して悩みを相談できる保育者になりたいと感じました。…

第5回講演会 子どもが育つみちすじ⑨

子どもの時間というのはね、もしかしますと、みなさんも10歳頃までの出会った人たち、たぶん100人か1000人かそこいらでしょう。親しく出会った 人、この世に60億の人がいますけど、60億の人にいきなり会う訳じゃありません。100人か1000人の人に出会い、人ってこうなんだ。人の表情ってこ んな表情なんだ。怒る時こんなんだ、褒めるときこんな顔して褒めてくれるんだ。こういうのげんけい(原型)アーキタイプ基本系といいますが、人間というも ののイメージの現象、基になる形、イメージが入ります。
それを持って船出をする。いよいよ男の子、女の子が男、女になります。
背がある時自分を通過して行く。
みなさんもご経験ありますか?私も子どもがある時、私もかなり大きい方ですが、私を通過していきました。そして10代に入り、今までとは打って変わってややこしい子になっていきました。
ああ、思春期到来だなぁと思います。節目の川、性という節目の川渡っていきます。
えーそうすると動物ならもう親離れ子離れをしていいのに、人間だけは親離れ子離れがまだ先に、少し時間的に先送りされますね。ややこしいに決まってますよ。
家の中にね、成熟したオスとメスがいる訳でしょう。本当に子どもの部屋に入ると何とも言えない10代の子の部屋って生臭くてね、怪しげな物がいっぱいあっ てね、ちょっと開けてみようか、という誘惑もあったりして、見ようもんなら、もうそれこそどんなにやられるかわからないと思いながらも、ちらっと見てみた りなんかして。でもなんか悪い、絶対これは見たとは言うまいぞ、と思ってみたり。
喧嘩の途上でついポロッと言って、それこそ一ヶ月ほどものを言ってもらえなかったり、親ってやるもんです。で、怒る時にね、もう権威がなくなってますから、何を言っても“言いたかったら言ったら”っていう顔して聞いてますから。
もう年に2回ほど、どうしても言う時は、みなさんもやって下さい。私はたいてい椅子の上に上がって、ここから言うと、どうも見上げて言うのは権威がないん でね。これだけはここから言わせてもらうからね、って言うと、平然として「言いたかったら言ったら」っていつも言ってました。かつての、今やもう30女で すが、懐かしいです。
でねぇー思春期はね、危ないものと心得て下さい。あの、危ない方が、危ない方がっていうのは変ですが、危なくって健康なんです。素知らぬ顔して、あとで過ぎ去ったあと思い返せば、危なかったと思うのが大方のいわゆるよい子でいらっしゃる皆さんでしょう。
でも、危なかったってどこかで思われませんか。友だちについ誘われて行きそうになって、ギリギリで行かなかったとかな。あるいはギリギリで行っちゃって、 警察行ったことが一回あるとかね。たいした差じゃありませんよ。行ったか行かないかぐらいは、ちょっと向こうに行ったか行かないで、行った子は逆です。一 回でも行った子は、もう一生涯覚えてますからね、「いい経験したね」って私はよく非行の子に言います。
「もうあれ嫌だったでしょう、楽しいのならともかく嫌だったでしょう」
やっぱりね、危険って赤い字で書いてあって、ここはここ過ぎたら危険だって言われてて、そういうの書いてあったら不思議にそこへ行きたいもんなんです。10代ってね。
「でも、行ってみたら分かったでしょう、転んでもただで起きちゃ駄目だよ、大人になってね危険って書いてある、つまり法律っていうもの違反すると、もうそのギリギリで船を引き返しなさい。そこを越えたら見つかろうと見つかるまいと、必ず何かが待ってるからね」って。
「それをあなたは経験した。しなかったよりした方が良かったね。いい経験したねェ」ってよく非行児に言います。転んでもただで起きるなと言いたい。
それが自分のものになると、本当に一生涯生きていく時にプラスになります。法律違反ということがどんなに重いか、いい経験をしますからね。そういうのしな くて50代ぐらいになってね、政治家やら何やらが手痛い目にあったりするのを見ると、知っといた方が良かったんじゃないかと思ってさしあげたりして、自分 も割合上手に生きて警察に行ったことがないので、どこかひ弱でね。私も初めて捕まる時はきっと怯えきるだろうな、いつも怯えてますけども。

だからそれぐらいなら、まああっち側へ行かないように、なるべくしようと思うのですが、非行児に会うとややね、やや尊敬もこめて「あなた、先輩ね」って言いたくて、「いい経験だよ」って本当に言ってあげたくてね。
学校に行かない子や引きこもっている子も、人とつながるってなんて難しいだろうって思う。昨日まで口笛吹いてね校門入ってた訳ですから。それが何故にか校 門をくぐれなくなる、それは人間が駄目になったんじゃなくて、自分の中で自分の問題がおこってきている訳です。いいチャンスですよ。真っ直ぐ学校へ行って る子が立派でもなんでもない。たまたま人の背中見てね、運動会の行進みたいで、前の子が歩いてく後ろついて行けばどこかに行きますからね。
円をえがきましょうって言ったって、タッタタッタ行ってるだけで、自分一人で歩くったら大変ですよね。背中が前の背中がないんですもん。よくよく考えてみ たら、学校へ行ってたというのは別に「本当に行くぞ」って、毎日いちいち決心して行った訳でもなんでもなくて、ただ惰性で行っとったような気がしますか ら。
行かない子がね、ある時ちょっと靴紐直したり、ちょっとまわり見回してちょっと気持ちが重くって行かれなくなって、一日二日行かれなくなって、いわゆる不登校になるっていうのは、別に人間としてどこも失格ではなくいいチャンスだと思います。
それは、彼は立派とか立派じゃないじゃなくて、自分は何をしているんだろう、なぜ学校へ行くんだろうって、今まで考えたこともなかったでしょう。今考え る、あそこに人がいる、今まで友だちにあんまり悩んだことがなかったのに、たった一人の誰かのまなざしや声が気になって行かれない、あなたはそれだけ敏感 に世界を感じ始めたのねって言ってあげたいし、世界ってそう言うものよって。
そういう時が大人になってもいつの時代でもある。で、それを越えていく時に人と人とつながることが、前よりももっと深くなる。いいチャンスだから、また転んでもただで起きるなといつも言うんですが、何をやっても転んでもただで起きちゃ駄目よって、いい経験なんだから。
思春期はそういうことが言えて、私は思春期を一生涯の仕事にしたかったのは、いい季節だからです。だって真っ当な季節ですもの。10代をかけてしっかり悩 …

第5回講演会 子どもが育つみちすじ⑧

今言った5分後にまた同じ事をやりますからね。「さっきたしか言ったでしょう・・・」そんなこと言わんでいいです。5回であろうと、100回であろうと、 「今、私は言っておく、親切だからね。あんたの心はいいことは分かってる。しかし覚えるしかしょうがない」私の家では必ず同じセリフなんです、いつも。 「人生はそういうもんだ、覚えるしかしょうがない」「それはどうして?」
「どうしてじゃない。もうこういうことになっていて、あなたはこの世に生きている限り諦めるしかしょうがない、だからそこを通過したら必ず注意してあげるから」・・・
そうしているうちに、やがて通過してしているうちに、本当に誰も見ていなくても、人の物を取らなくなる。ここ何度も何度も通過してね、まわり見回してね。
私も釣銭ごまかしてね、母からもらったお金を持って絶対買っちゃいけませんっていう悪本を買ってね。本屋に行きまして、小学校3,4年か忘れましたが、母 に頼まれた釣銭を持って本屋の前を、ガラス戸の前を行ったり来たりしてね。もう汗でじっとりなって、こうやって握りながら、どうしょうか、どうしょうかと 思って、とうとう意を決してパッと中に入って。岡山の田舎なんですけれども、本屋さんは一軒しかないんですが、そこへ入って、おばさんにパッと出して、
「これ下さい」って言ったら、またおばさんが、すんなりとくれる訳ですわねェ、お金を出しますから。こんなに簡単に手に入るんだわぁと思って。またそれを 大喜びでかかえて帰りながら、ふと思って。「さあ母にどう説明するか」で。もう考えても考えても小さな頭で考えても、ろくなこと思いつきませんから。
「帰り、そこのところで蹴躓いて、鉄板のところでお釣りを川に落っことして」こんな嘘を、見え見えの嘘はないと思うのに、母はコロリと騙されて、それで、「帰りが遅いから心配していたけども、探してたの?まぁあなたは一生懸命探したのね」と褒めてさえくれて。
それで、なんて簡単に大人は騙せるんだ、とその時思いました。こんなに簡単に騙されるんだーと思って。それで、もうその悪本を隠して隠して持って帰って ね、自分の部屋に帰って、半分はなんとなく面白くて得したぞ、って思いながらも、なんか母に二度と顔向け出来ないことをしたような人間になったような気 が、ちょっとしましてね。ちょっとちくりと胸が痛くって
「あーやっぱり、こんなことこんな思いするぐらいならしない方がいいかなー」と、ちょっと思ったりして、それでももちろん、嘘はしょっちゅう子どもの時からかなり上手ですから、ついて。
また、父親も母親もすぐ騙されますから。で、簡単にこんなに簡単に騙されるんだという経験を、たぶん、どなたでもなさってると思います。
ところが、ある時それをしなくなる。それは自分の中で通過している。今、嘘をついたという通過という意識をもってるから、ずっとなんとなく居心地が悪くて ジクジクしてる。それが、5年か6年か10年、ある時自分の中で、自分として誰に叱られようとも叱られまいとも、こんな思いするぐらいなら嘘をつかないで いこうと自分に決める。これをモラルといいます。
モラルというのは、内側が育たないと本当のものにはなりません。外から見てりっぱな行為をしてるからモラルなんて言ったら、今の偉い人たちが、嘘ばっかりついているのはどうなりますか?ってことですね。
私たちもそうです。いい大人になっても嘘をつきますが、どこかでチクチク思う。子どももチクチク思わないと駄目です。これは言ってない子どもは思いません。なんで人を殺しては悪いの?なんで叩いては駄目なの?という子になってしまいます。
「殺してはいけないの」私はもうこれはしてはいけないことなのと、思春期の若者に言います。
性の逸脱行動とかね。いわゆる、ちょっと遅れてきましたが、援交、援助交際、本当に多いですからね。小学生あたりから・・・。そして嘘ぶきますからね。別に減るもんじゃない、誰も文句言ってる訳じゃない、どこが悪いんですか?
そういうこと言われて親御さんがわが娘がそう言った時に、どうやったらいいでしょうか。
「それはしてはいけないことしてるのよ」と、「これはあなたがどんなに言おうと、してはいけないことなの。」「どうして?」「どうしてじゃなくて、人生と はそういうもの、これは人間として定められている大事なルールなのだから、これ以上は言わないわね」って、私はそれ以上説明しません。
私はそれ以上言わない。してはいけないことなのって言うと、逆にふっと黙ります。あーだから、こうだから理屈じゃないんです。これはね、共に生きていくた めに、人間が決めているルール、もちろん法律も、その時その時の社会で少しずつ変えていきますが、原則的な人間として守らねばならないこと。これを犯すの は人間の常なんですね。

禁止区域に私たちはすぐ入ります。でも、これをペケだと教えられた人は幸いです。胸がチクチク痛んでますから。
私、大変有名な幼稚園の先生と対談しましてこの話をしたら、彼が、日本の有名幼稚園の先生で、お坊さんのお子さんで、ご自分もお坊さんなんですけども、
「先生の話聞いてて、僕も子どもの時、カエルとかトンボとかね、男の子ですから、面白がってペッと潰したり羽根をちょん切ったり、もういたずらっ子で、そ んなことばっかりして、見つかったらお父さんに叱られて、蔵に入れられて、蔵の中でおしっこしたり、泣いたりわめいたり、もう出してくれー」って。
出してもらったらまたすぐその足でまたやって、また入れられて、また捕まってもうずーっと叱られました。」
「で、先生いつまでですか?」
「小学校5年まで、カエル殺してました」
「小学校5年までこうやってやってたの?」
「そうです、もういつもこうやってつぶして、もうなんとなくカエルをつぶして、ヘェーこんな体なんだこうなんだ」
面白かったかどうかは知りません。男の子のカエルやらトンボやらをいじるのは、男の子同士の面白さなんでしょうね。でも、毎回毎回蔵に入れられてもへこた れずにやっていた彼が、「ある時止めました」とおっしゃいました。いい話だなあと、私はそう思ったのは、ある時止めるんですね。それは、自分の中にそこま …

第5回講演会 子どもが育つみちすじ⑦

動かそうと思わない限り、手は絶対に動きません。みなさんね、“動かそう”と思う、これ意志です。だから、ここでキーワードはいくつも出てきます。この時 期に意志ということ、自分の考え、自分の頭で考えない限り、手は1ミリも動きません。動かそうという意志ですね。それによって手が動く。だからもう、腹を たててお母さんがにぎらせようと思って、ガーッといく。これは他人が動かしているんです。本人の意志ではありませんね。動かすというのには、もっとすごい のは、ここで排泄ですね。
いちばん大きいのは排泄ですが、排泄というのは、神経のコントロールでしょう。排泄、おしっこが溜まる、溜まったかんじがわかって、そしてそれを、これはコントロール力がいる訳です、これが自律心ですが、
自分で自分のコントロールをする。それも、礼儀正しくね。どこでもしていい訳じゃない。
こういう場所でね、トイレの場所で、トイレの便座で、便器で、ちゃんとしゃがんで、
「さぁーいいよ」って言ったら、蛇口をひねるようにジャーッと、それより前だったら早すぎる。じーっと座ってなかなか出なかったら、やがてタイミング合わせるまで練習して、ちょうどタイミングよくする。簡単なようですが、むずかしいんですよ。
この神経がね、ちゃんとコントロールをして、膀胱や肛門の筋肉を支配している神経がおごそかに「さぁーよし」っていうので、ちゃんとおしっこやうんこを出す訳でしょう。
そして、それもちゃんと決められた場所できちんと座って、そして、パンツを下ろしたり上げたり手を洗ったり、一連の作業を。
あなたは人になった。人間になるには身を美しくしましょうね。どういう方法でやっても、体は健康でいいんだけども、人間である限りは身を美しくしましょう ね。これが、躾でしょう。だから、躾というのは、人間社会を生きていくためのルールを教えていく、原則を教えていくということで、この時期にあっているの ですが、この自律心ということ。自分が自分の体をコントロールする喜び。いいですか、自分が自分の体を、法律の律ですから、コントロールする、調節する喜 び、それが一番育つ時なんです。だから嬉しくてね、おしっこし始めた子どもが、もう見て見てって顔していますよね。僕上手にしたでしょう。
ご飯、お箸上手に持てるようになった、見て見て。コップで飲めるよ、とか。洋服こうやって着れるよ。口をとんがらしてね。ボタンをこうやって小さな手で、ボタンのホールをこうやって通して、さあ出来たって言いますよね。
その瞬間、これは出来るということは簡単じゃないんですよ。本当に障害を持ったお子さんを見ていますと、本当に一本神経が切れるともう動きませんからね。それを一生懸命、障害児たちも訓練をして、訓練をして自分の力を身に付けていこうとしている訳です。
普通の子もそうです。普通の子の方が簡単だと思うかもしれませんが、どの子も最初から出来る子はいない。だから、昨日あんな失敗した、でも今日はここまで出来た。すごいことをやってのけたね、って言うと、そうか「自分には力があるんだ」と思いますね。
で、これをね同じように、同じことですが、身を美しくするためにビシビシとむちで叩きのめしてね、「お兄ちゃんはたしかもう一歳何ヶ月の時やってのけたの に」とか、「おしっこはちゃんと出来たよ」とか、「お隣の○○ちゃんはもうあそこまでやってるのにあなたは・・・」って言われる。そうすると、泣き泣き僕 はダメなんだ、ダメなんだと思って、おしっこやうんこが出来て、お箸を使えるようになるとしても、自律心は駄目になります。自分には自分の力があって、意 志力を働かせて面白いほど、自分を自分でコントロール出来るという、これは自分に対する大きな自信になります。
大人になった時も、実はみなさんもう忘れ果てておられますが、その時初めてコップの水を飲んだ、初めておしっこやうんこが出来て「出来たー」っていうその 経験が、みなさんの心、奥深いところにあって、大人になっていろいろやる時にも、もしかしたら失敗するかもしれないがやってみよう、自分には自分の力が あってコントロール出来るはずだと、かすかな、なんか心の内側の芽が立ち上がってくる訳です。これ、自律心ですね。

それから、その次が自発心ですね。これが、5、6歳になります。
この上ですね、4,5歳、4歳から6歳ぐらいまでの年長さんあたりでしょうか。で、この時はもっとスケールが大きいです。まだ、3歳ぐらいまでは、子ども がヨチヨチ歩きからやっとこさ言葉が少し出てきて、3歳になったら「パパ会社行った」と三語文ぐらい言えたら恩の字ですね。ところが、もう3歳ぐらいから 爆発的に伸びていきます。そしてもっと、もっとっていう思いが湧いてきます。もっと、もっと、もっとっていう思いの時は、これは自発心というイニシアティ ブという英語ですが、欲望と置き換えてもかまわないくらい、自分の内側から発する心ですからね。自発というのは、自分の内側から発する心の中に最初の火種 がある、元がある訳です。
ここから伸び上がって、ボールがあったら蹴りたくて蹴りたくて、ブランコがあったら乗りたくて乗りたくて、積み木があったら積みたくて積みたくて、絵が あったらこうやって描きたくて。やりたくてやりたくてたまらない。これ、自発心って言うんです。自発ですからね。他人がさせるの、他発ですね。子どもはや りたくもないけども、お母さんの顔見たり、先生の顔見たら、これやらなくちゃいけないと思う、目に見えない金の糸みたいなものでやらされとる訳です。する とお母さん、「私は言ったことありません」とおっしゃるけど、顔見たら判りますよね。もう満面笑みを浮かべているのを見れば、子どもは「やらなくちゃなら ん」と思う。もうこれ以上渋い顔は出来んという顔をされると「やめよう」と思う。コントロールされてますもんね。「この子がやりたいからやらせてます」ぜ んぜん他人が目に見えぬ糸でコントロールしてますからね。欲望なんです、言ってみればね。
始発はやりたいからやらせるというのがあって、これから自発心というのは伸びていくのが本来。これが自発心。だから、一番4.5歳の子どもは聞きたいことを聞きます。「どうして」何とかんとかでたくさん聞きますね。
それから、行きたいところへ行く。ちょっとしたこの出っ張りがあると、その上に乗っかりたい。それから砂の山があったら、膝こぞうを擦りむいても上がって みたい。上がったからって何になるのか知りませんが、上がってみたい訳です。こういう心というのは、生きていく上でものすごく大事なんです。大人になった 時にね、自発心というのはすごい大事なんですが、この時期に最も重要なことの一つがね、自発心というのは“隅”とセットものなんです。隅という領域があり …

第5回講演会 子どもが育つみちすじ⑥

それは、信頼感を与えてあげてこの子を愛して守ってあげたいと思っていたら丁度いい加減になります。どんなに頑張ったって80点か70点位しか取れません、どんなお母さんも。
だって赤ちゃんとお母さん、別人ですから、100%子どもの欲求が分かる訳ないです。一生懸命側にいても泣きやまない時、こっちが泣きたくなりますね。 「何か言ってよ、何がしてほしいのか、してあげるから」・・・言いたくなる。でも、何をしてもね、おむつを替えてもおっぱいをあげてもお白湯をあげても何 をしても泣きやまない時、子どもはその間ずーっと怒ってます。つまり、自分の欲求にたどりついてもらえないから。
で、最後に眠かった。もうやっと、寝入った時の幸せな顔を見て、「あー眠かったの、ごめんごめん」って。そういうことしょっちゅうありますね。それはこの 子になんとかしてあげたいと思うお母さんや先生が10点ほど引かれてしまうけど、その引かれ方とっても意味がある訳です。
最初からどうでもいいですわーって言ったらもっと悪くなります。やっぱりね、なんとかこの子が気持ちよくなるようにしてあげたい、という素朴なごくごく健康で平凡な考え方で十分です。
そして、一生懸命してみて子どもが待っている時間があって、でも待てば必ずくる、という経験を100回も1000回もする。
そうすると、赤ちゃんはここで希望という人格的活力を身につけると、私は特によく使うんですが、赤ん坊の時にはね、人間の人格的活力として自分の人格を組織づける強い力のひとつが希望ということ、希望のもてる人というのはね基本的信頼感です。

つまり、この世に失敗やら間違いやらいっぱいあって、暗―い夕暮れがあるでしょう。
仕事に失敗するか、友だちとあるいは恋人とうまくいかない、夫婦がうまくいかない、親子がうまくいかない、あーあって暗い夕暮れを迎える時に、でも明日ま た頑張ってみよう何かいいことがあるかもしれない、かすかな明かりを見いだす人、これは理性で思うよりも何より自分がそういうタイプの人は信頼感、人に対 する自分に対する信頼感がどこかで無意識のうちに火種に火をつけるんです。
そして、朝、朝日が昇ってなんとか生きてみようって思う訳です。これは言葉で説得より何より、その人の人格の深いところにある力、活力なんですね。赤ちゃんは希望でしょう。
つまりもう100回も1000回も、一日に何回も何回も、一年経ったら100回も1000回もありますが、泣いたら来てくれる泣いたら来てくれる、あのつ らいお腹がすいて苦しいとき助けに来てくれたという経験を何回も何回も経験すると、人生でうまくいかない時も、もしかしたらうまくいく日が来るかもしれな い。未来について誰も何の保障もないんですよ。
希望というのはそういう時に生まれる力ですから、反対は絶望ですけれど、絶望も我々は感じます。もう絶対駄目だと思う、誰も明日のことは分からないにも関わらずネガティブに思うのを、絶望といいます。そして、その中にかすかでもいい光を見いだす。
だから子どもの時基本的信頼感と希望という力は、これは大人になって、どうしてこの人はこんなに不幸の問屋さんみたいにね苦しんでいて、私の前に来る患者さんなんかもそうですが、
もう本当になんとまあ次から次へと苦しい試練の中に、と思うような方でも、ふっとね、でも人生何かあるかもしれません。なんとか頑張ってやってみたいと思いますっておしゃる方があります。
これは、私が説得したりなんかよりも、自分の内側から、さっきのディベロプメントですね。
何か種のようなものが自分の中で立ち上がる訳ですね。

そして、打ちひしがれる中で何とか生きてみようと思う。それは赤ん坊の時に、これだけじゃないんですが、ここで一番獲得できるといってるんですが、何度も 何度も基本的な本当に生きるか死ぬかというぐらいベイシックなその経験の中で、子どもは人格的な活力として、この希望という力を獲得するんだろうと考えま す。
反対があのあれですね、虐待を受ける子どもたち、0歳の虐待、乳児の虐待というのがありますね。これぐらい悲しいことはありません。一番信頼を置くべき親 に愛されないどころか、本当に恐怖の経験をさせられるとしますと、子どもはこの世界に何の光も見いだせなくなります。人というものを信頼できなくなりま す。不信に黒々と心を塗りつぶされますね、で、そうなりますとね、生きていく時に人を愛したり信頼することが大変難しくなります。
基本的信頼感が危うい訳です。しかもね、人に対する信頼感が危ういよりももっと重要なのは、自分に対する信頼感、赤ちゃんでね他人に愛されることで、他人を愛する力ができるっていうのはよく言われます。
愛された子どもが人を愛することができる、そうですね。皆さんも人に愛されて、本当にいい人間関係をもつことによって、自分の中にエネルギーがしっかりと湧いてくる。

いじめる子、犯罪を犯した子が沢山いる訳ですが、この子たちの中には、そういう心の中に基本的信頼感を培うことを失敗している子どもたちがいます。その子 に出会うと本当に人に対する愛のかけらも育てられない悲しみがあります。それでも、その子たちが本当にこの世に、やさしく本当の思いやりのある人に出会う と、心が少し変わります。そして「あー、人は信頼できるかもしれない」と思って、少しずつ人を信頼することを覚えていきます。
ところが、治療で一番手間どうのは、人を信頼させることよりも、自分を信頼する力、こちらの方が治療がむずかしいです。
つまりね、人に愛されているあの赤ちゃんたち、みなさんが抱っこして、もう落とさないようにって思って一生懸命抱っこしますね、お父さんもそうですね、お 父さんも同じですよ、お母さんもそうです。お風呂に入れて、最初は危なげな手つきですね、耳にはじゃぶじゃぶ水が入りそうで、お湯が入りそうで、あーこれ は危ないなって思ってたりします。ごつごつした手つきでね。
でも、いつの間にかお父さんもやさしい、やさしい手つきで、子どもを傷つけないように傷つけないようにって、こう愛撫するようにお風呂に入れたり、おむつ を替えたりなさいますね。それはもう子どもへの思いが、自然に子どもにやさしくいとおしさを増していく、素敵な母なる心、同じ心が育つわけですが、そうい う風に育てられた子どもたちは、何を感ずるか、人を信頼することと、それよりもっと大きいこと。“私は私に値打ちがあると思う”だってこんなに大事にされ …