平成18年3月18日(土曜日)
明治学院大学心理学部教授
藤崎 眞知代 先生
講師プロフィール
藤崎 眞知代(ふじさき まちよ)
明治学院大学心理学部教授
主な著書・編著
- 保育のための発達心理学(新曜社)
- 育児・保育現場での発達とその支援 (ミネルヴァ書房)
- 保育ライブラリ(子どもを知る)発達心理学 (北大路書房) 他
(※著書にあるリンクはそれぞれamazon.co.jpの該当ページです。)
今日のお昼に米子に着きまして、ベアーズの色々な施設を見学させて頂きました。病児保育自体は数多くあっても、中身のある病児保育とはどのような内容なのか、子どもにとっても、また保護者の方にとってもよい内容とは何かを考えていかなければならないですが、今日、拝見してとても温かい気持ちになれました。そのような気持ちを抱きながら、私が専門としています「発達心理学に基づく保育」ということで、ここにあります演題「子どもの発達と保育―自己の育ちを支えるには―」について1時間ばかりお話させて頂きたいと思います。
今日のお話はパワーポイントに即して進めていきたいと思いましたので、レジメ1枚と補足資料(パワーポイントの画面9枚)を用意してまいりました。これをご覧頂きながら聞いて頂ければと思います。レジメを見ていただくと、全部で4つの話になっています。まず最初に「赤ちゃんの世界」について最近の赤ちゃんはどのように捉えられているのかをお話した後、「集団の中での発達」、それから3番目に「発達を踏まえた保育」、最後に「まとめ」という構成でお話したいと思います。
1.赤ちゃんの世界
まず、最初に赤ちゃんの世界ですが、保育園では0歳から就学前の子どもさんを保育していらっしゃるので、日常のお仕事のなかで赤ちゃんの一人ひとりの個人差を実感されていることかと思います。私が学生の頃に、受身的と捉えられてきた赤ちゃんが、赤ちゃんなりの有能さをもった存在であると、一般的に理解され、そのように捉えられるようになりました。その背景にはレジメにありますように、赤ちゃんの意識レベルを区別して見ると、色々な能力を赤ちゃんなりに持っていることが分かってきたのです。
意識レベルは睡眠と覚醒の2つに大きく分けられます。さらに睡眠の中にも深い眠りと浅い眠りの状態に、覚醒には静かな覚醒と活発な覚醒と泣きの3つの状態に、あるいは睡眠と覚醒の中間に身体は起きていますが意識は眠っている半覚醒、半睡眠という状態(よく大学の授業中にみられますし、私も会議になると(笑)、立場が変わるとこういう状態になってしまいますが)を含めて6つの状態に分類する方もいらっしゃいます。この「静かに覚醒している」状態で、赤ちゃんは色々な刺激を捉えて反応を返してくれることが分かってきたわけです。これはアメリカの赤ちゃんの写真ですが、深~く良く眠っていて呼吸のリズムも規則的で、どんな音がしても呼吸の乱れない深い眠りから、夢を見ていてちょっと音がすると体を動かしたり、呼吸が不規則になる浅い眠りの状態、こっちは目を閉じていて、こっちは目を開けてる半覚醒半睡眠の状態から、泣きの状態、それに対して両目を静かにパッチリ開けて外を見ている、この状態のときに色々な刺激を与えると、それに対して的確に応えてくることから、最初にお話しました「有能な赤ちゃん観」という捉え方がなされるようになっていったわけです。
これは静かに覚醒している状態の赤ちゃんに、赤いボールを20cm位のところに示して左右に動かすと、目で追うだけでなく首を動かしてまで追っていく、物を目で追う反応が見られます。保育士の方が移動すると、その姿を目で追うなどは日常的に見られます。それから頭を支えないで手を引っ張って持ち上げたときに、首から肩を緊張させてゆき、最後にはしっかりと自分で起き上がり、自分で頭を持ち上げます。この姿勢は生まれたときの成熟度にもよりますが、こういった身体的な面での成熟に加えて、特に保育という場面では人への感心がとても早い時期から示されていきます。その1つが「談話のリズムへの同期性」とレジメには示してありますが、生後数日の新生児に、アメリカの赤ちゃんですので生の母国語の英会話を聞かせる、テープに録音した英会話を聞かせる、或いはテープに録音した母国語ではない中国語の会話を聞かせることをしますと、何語であっても人と人との会話のリズムに合わせて身体を動かしたり、頭を少し前後させたりという動きが見られます。それに対して規則的な机を叩く音に対しては、音に合わせて身体を動かすことは見られません。生まれて間もない赤ちゃんではありますが、人の会話のリズムに反応するといった人に志向している特徴を持って生まれてきていることが、「談話のリズムへの同期性」から示されます。
また、これは人の顔図形を1ヶ月と2ヶ月の赤ちゃんに見せたときに、どこに注目するか、瞳の動きを追ったものです。1ヶ月の赤ちゃんですと最初はお母さん顔の下、顎の当たりを見ているのですが、す~と頭の上の方から周辺部を見てから、目に視線を移動していきます。それが2ヶ月になりますと顔の周辺部ではなくて、目に注目します。赤ちゃんに向かうときにはよく目が動きます。表情も能面のような顔で赤ちゃんに接する方は少なく、自然とにこやかに口を動かして話かけます。目の白と黒のコントラスト、そしてよく動く口元、そういった顔の内部、人とコミュニケーションするときに大事な目と目のコンタクトですとか、会話に用いる部分に注目していく様子が2ヶ月の時点で特徴的に見られてきます。また、これは新生児1ヶ月での赤ちゃんの特徴ですが、大人の表情の模倣も既に見られます。
それからもう1つ別の視点から、これはおしゃぶりの絵ですが、普通はこの部分を口の中に入れ心地良い感覚を経験するようにつるつるになっていますが、これはいぼがあり、いぼいぼおしゃぶりと呼ばれます。このいぼいぼのおしゃぶりを赤ちゃんには暗闇で口の中に含ませます。ですから実物は見ていません。次に今度は明るい部屋で、いぼいぼおしゃぶりとすべすべおしゃぶりを同時に赤ちゃんに見せてどちらに注目するか見てみますと、いぼいぼおしゃぶりの方に注目するのです。既に口の中で触覚として経験したそのものを見るのです。これは触覚で得た情報を目で見たときに視覚的に捉え、触角と視覚という異なる感覚器からの情報を統合していく感覚間の協応と言われています。私たちは目で見て、そのものを取ろうとして手を伸ばすとか異なる感覚器官の働きを統合して色々な行動を獲得していきます。そういった統合する力が生後1ヶ月の時点で見られるのです。さらに、もう一つ有能性さの例をあげてあります。それはモノの永続性の理解です。ものが見えなくなると世の中には存在しないと思ってしまったのが、見えなくなったものを一生懸命探すというのは、見えなくてもその物があり続けていることを理解したからこそできる行為です。この物の永続性の理解は9ヶ月位であると、有名な心理学者のピアジェの研究では言われていました。目の前で遊んでいたものをハンカチとか布で隠してしまうと、もうその物が無かったかのように赤ちゃんの注意が反れてしまうということなどからからです。しかし、現在では3ヶ月位には見られる、理解していることが示されています。それは赤ちゃんがびっくりするとその刺激を凝視するという行動を指標としたときに、もっと早いことが分かってきました。これがその1つの実験場面ですが、小さい人参と大きい人参が、こういう衝立つの後ろを通るというときに、小さい人参も大きい人参も一旦見えなくなって、また見えてきます。この様子を赤ちゃんはごく普通の表情で見ていました。次に衝立の形をこの様にここの部分をカットしたんですね。そうしますと、小さい人参の方は背丈より下ですので、先ほどと同様に一旦見えなくなり、また見えてくる様子を赤ちゃんは普通の表情で見ていました。次に、この大きい人参について、この衝立の裏を通ったときに見えなくなるようにし、またここで見えてくるように操作したときに、赤ちゃんはとてもびっくりして凝視しました。このことから、大きい人参はこの衝立の裏を通った場合には見え続けているはずだということを、赤ちゃんは理解していると分かったのです。びっくりして凝視するという幼い赤ちゃんでも良く見られる行動を指標にした時に、モノの永続性の理解は9ヶ月どころか3ヶ月の時点で見られたのです。この話を子育て支援にいらしている0~2歳のお子さんがいるお母さまたちにお話した時に、ちょうど3ヶ月のお子さんのいるお母さんが、「ちょっと席を立つとすごく捜して泣くことが最近よくあって、どうしたのかな?って思っていらしたのですが、今日の話を聞いてモノの永続性が理解できるようになったことで、私を一生懸命追いかけているんですね」とおっしゃっていました。本当に、生まれて1ヶ月、2ヶ月、3ヶ月といった時点でも、実に色々な力を持っていて、まわりの世界を取り込もうとしていますし、周りの人に働きかけています。どういう面で外に働きかけているのかは一人ひとりの子どもさんによって違いますが、それをきちっと受けとめて返していってあげるってことがとても大切だと思います。特にこういう施設で産休明けくらいから預けられる子どもさんの保育を考えていくときに、その保育の内容のなかで、赤ちゃんの力を大事に受け止めていって頂きたいと思っています。これが1番目の赤ちゃんの世界という部分になります。
2.集団のなかでの発達
次にお話はちょっと飛びますが、集団生活のなかでの発達を考える前提に、最初に有能さの例としてもお話しました生まれながらにして人に志向するという面は強くありますし、人として生まれて人になっていくのは人との関係のなかではぐくまれていくということがあります。そういった人との関係のなかで子どもは発達していくこと、発達するのは子どもだけではなく、子どもと関わる保護者、お父さんやお母さん、そして保育者も子どもとともに発達していくという意味から、それでは保護者にとっても、保育者にとっても、一人ひとりの子どもにとっても、人それぞれの自己実現のありようを探ることが大事になってきます。一人ひとり年代も違う、ここにいらっしゃる保育者の方も色々な年代の方がいらしゃいますが、それぞれの人生のなかで、今の年代で保育に携わっておられることがご自分自身にとって、どのような意味があるのかということを探るためには、1つにはメイという人の3つの世界という考え方が参考になるのではないかなと思います。
そのメイの考えといいますのは、人というのは「3つの世界を生きている」のだということです。実存主義の臨床をなさってきている人ですけれども、人間の実存の仕方としてまわりの世界とともにある世界と独自の世界、この3つの世界に人は生きているというのです。まわりの世界というのはまさに自分を取り巻く周囲の世界とか、自然の世界を指しています。自然とどのように自分は関わっているのか、周りとどのように関わっているのかということです。子どもの生活あるいは私たちの生活を考えた時に、自然との触れ合いがすぐにイメージされます。まわりの世界を自然との触れ合いとして考えたときに、こちらには沢山の田圃があって、畑もあるという環境ですが、そういった自然があれば自然と触れ合っているかというと、必ずしもそのようには言えません。あるいは、私の明治学院大学というのは東京都港区のビルや高層住宅のなかにありますが、ビルに囲まれた生活のなかでは自然と触れ合えないかというと、そうでもないのです。ここに示してありますように、自然が身近に有るか無いかということではなくて、自然に対してどのような目、あるいは気持ちが向いているのか、ということが問われています。コンクリートの都内の園では園庭が屋上ということもありますし、広めのベランダだけの園もあります。でもそういった環境のなかに、どのように自然を持ち込んでいるのか、周りに畑とか緑があっても、それが背景になってしまっていないかどうか、自分たちが日々の自然の変化に本当にどれだけ目を向け気持ちを向けているのかどうかが、このまわりの世界、自然との関わりとして問われているわけです。それは自分と自然とのかかわりだけでなく、子どもたちどのような自然との触れ合いを用意していこうとするのか、保育者としての自然への向き方にも反映していくものだと思います。
2番目のともにある世界といいますのは、ともですのでまさに人間同士の相互関係の世界を指しています。同じ子どもさんでも相手によって自分を発揮できるときもあれば、ちょっと引っ込んてしまう、黙ってしまう、というように相手によって人との関わりは違います。相手によって関わり方が異なり、相手によって独特の関係が形成されていくわけです。そういう一人ひとりの子どもさんが、自分らしさというものを、どのような相手に、どのような場面で発揮できているのか、そして、ただのお友だちから、とても親しみを持ったお友だちなど、友だちから親友といった仲間に対する親しみの気持ちの深まりを、どのように保育のなかではぐくんでいくのかということが、ともにある世界への援助として問われてきます。
グループを変えてみたり、お昼の時の席が隣になるように何げなく仕向けていくとか、波長の合いそうな子どもさん同士が遊べるようなセッティングを保育者の方で準備するといったことが、子どもさんのともにある世界の広がりにつながっていくと思います。
3番目の独自の世界といいますのは、人と一緒にいるだけでなくて、人との触れ合いを通して、さらに自分を知っていくことにもなり、自分独自の世界をもつことを指します。一人ひとりの子どもが、いったい今日、何をしたいのか、何をするのが楽しいのか、何が苦手で何が得意なのかというように、自分に向き合って自分の特徴に気づいていくことに基づいて、ひとりの人間としての独自性が子どもなりに、年中なら年中、年少さんなら年少さんのその年齢なりに、自分の独自性を掴んでいくような、そういった働きかけが大事になってきます。今日の講演のサブタイトルに「-自己の育ちを支えるには-」と書かせて頂きましたが、ともにある世界も、まわりの世界、自然との触れ合いも大事ですが、でもその根底にある自分自身の自己をはぐくむことが、特に私は大事だなと思っています。
独自の世界のありようが現実世界を見る基盤にもなっていきますし、人との関わりを持つ際の基盤にもなっていくということでは、その集団生活に入ってきたときに、まず一人で安心して過ごせる、そして保育者との間でやりとりができ、保育者に対しては自分の願いをちゃんと表現できるようになり、さらに保育者を介してお友だちとも触れ合っていく、といった広がりのなかで、さらにまた自分に戻っていくことになります。集団生活は共にある世界との出会いだけに、ややもするとお友だちと遊べないとか、お友だちがいないことを保護者の方は気になさるし、保育者の方もちょっと一人で浮いてる、ポツンとしていることに気を止めることが多いかと思いますが、一人でいる姿が、お友だちもいるなかで一人でいるのか、友だち関係がないままにただ一人ポツンとしているのか、そういったところを見極めながら、保育者との関係、お友だちとの関係、さらには自分自身とちゃんと向き合うように少し揺さぶっていく…といった働きかけも必要になってくるのではないかと思っています。
メイはこの3つの世界に人は生きていると言っているのでが、この3つの世界のどれ1つ欠けても、人間存在とは言えない、とも言っています。3つの世界を同時に生きること、ですから保育という営みのなかでは、一人ひとりの子どもさんにとって、その子なりの自然との触れ合い、ともにある世界、そして独自の世界の3つのうち、今はどの部分を特にサポートしていく必要があるかということはあるにしても、この3つの世界のいずれもはぐくむことが、人としてのありようそのものを支えていく基本的なことではないかなと思っています。
その次に、これら3つの世界を人は生きているとすると、就学前という年齢からは3つの世界を遊びを通してはぐくむことが一番大切になってきます。そのように考えると、では、遊びとはどのように定義がされているか、今ここに5つほど、ガーヴェイの定義を見てみましょう。遊びなさいと言われて遊ぶというものではなくて、①自分から遊びたい、〇〇したいという内発的な動機づけによって意図的に行われる活動であり、②その活動自体が目的ですし、③遊びですから楽しさを求める活動ですし、④本気でありのままというよりは、現実を虚構に置き換える活動で、ごっこ遊びはまさに現実を虚構に置き換えて、いつもお母さんに怒られているから自分がお母さん役になって子ども役のお友だちを叱ってみたり、お兄ちゃんが言われているセリフをお母さんになって言ってみたり、そういった現実を虚構に置き換える活動ですし、⑤可塑性に富んだ活動でもあります。一番大事なのは内発的な動機づけに基づき、しかもとっても楽しいというのが遊びであり、子どもにとって毎日の生活のなかでは遊びを中心に展開されていくものであり、遊びを通して色々なことを学んでいると言えるわけです。
次に補足資料(1)にこの画面は載せてあります。補足資料の番号がこのパワーポイントの右上に示してございますので、それをご覧頂きくようお願いします。ただ単に遊んでいるのではなくて、遊びを通して子どもは沢山のことを学んでいます。「身体的発達」、あるいは「知的発達」、言葉の尻取りとか、七夕のお願いごとを書くといったなかで「言語的発達」もありますし、お友だちとの楽しい経験もあれば、悔しい経験などを通して「情緒的発達」が見られますし、自分が本当にやりたいことは何なのかを考える、突きつけられることで「自己の発達」という面もあります。それから、大人は意図をくみとってくれますけれども、お友だちとの間では自分の考えや気持ちをちゃんと言葉で表現しないと伝わらないですし、思いやりというのも必要で、そういう意味では「コミュニケーション・スキルの発達」もあります。これまでのものは遊びを通して何かを学んで発達していくものが示されていますが、最後の「ストレスの解消」というのは違います。私はショッピングをするとか、美味しいものを食べたりしてストレス解消をしていますが、子どもさんも日常的な生活習慣であるとか、お母さんとの約束事を守るとか、色々なところでストレスを感じています。そういったストレスの解消のため遊びもあり、遊びを通した学びとストレスの解消が、生活習慣の自立を通して、さらに遊びが豊かになっていく部分もありますし、遊びこむことで身体的な、あるいは言語的な発達を遂げることが、生活習慣をより自立させていくとことにもつながっていきます。そういった意味で、子どもの生活を考えたときに、きょうだい数が減ってきているなど、今日の子どもを取りまく環境になかでは、遊びを中心とした集団生活の意味が、ここに示してあることからも大事ではないかなと思われます。
こうした遊びを通した学びの循環を考えたときに、ここに写真を沢山取り込んできましたので、ざっとご覧頂きたいのですけれど、「まわりの世界」と遊びについて見たときに、自然との感覚的な触れ合いから知的な理解へ、どのような保育的な営みが関わっていくのかいうと、例えば、これは6月での3歳児のダンゴ虫探しです。入園して間もなく、あるいは、もともと虫が好きな子どもさんが一日中虫探しをしている様子はよく見られます。年齢に応じて虫探しをした後に、3歳クラスではクラス全体での集まりのときに、ダンゴ虫は突っつく丸くなり、また伸びるというダン虫の動きを、子ども自身が小さくなったり、大きくなったりと…といった身体的な表現でダンゴ虫の特徴を感覚的に理解するということが試みられていました。4歳クラスではダンゴ虫をバケツに入れて、描きたい子どもさんがちょっと見てはダンゴ虫を描いていく…これが、4歳の子どもさんの描いた大きな大きなダンゴ虫です。年齢に応じて自然との触れ合いというものを、感覚的な理解から、どのように知的な理解につなげていくかというところに、保育者としての働きかけがあるわけです。
このような3歳と4歳の違いのほかに自然との関わりでは、例えば園庭に斜面があったとすると、物が転がっていくとか、それが持ち上げるにはどんな力が必要かといった遊びですとか、また季節によっては植物を採って色水を作るときに、最初は偶然できた色水を喜んでいくうちに、今度は赤い水にしたいからどの実を採ってこようかなど。そんな1つの遊びから、園庭にはどのような植物があるのか、そのような子どもさんの興味に即して、園庭にどのような植物を植えていくかといった園環境の整備や配慮が必要となってきます。その時々の自然の変化(これが補足資料の2で示してございますが)を遊びに繋げていくのですが、それは漠然と一体になる感じから、自然とともに活動するというものから、さらに自然を対象化してかかわるようになっていくといえます。例えば、年長さんでは野菜などの植物を栽培し、それを観察して収穫して…。自分たちが世話をしたものを食べるというのはとても楽しい経験となるわけです。子どもさんの年齢を考えて、自然との触れ合いを感覚的な段階から対象化して少しでも理解し、その成長を絵に描いていくという取り組み方も1つではないかなと思います。これが1番目の世界との遊びとの関わりですね。
それから2番目のともにある世界と遊びについては、ここに「情動調律」という言葉があげてあります。赤ちゃんがしかめっ面をするとか、笑うとか、1つの情動を表出したときに、その意味を赤ちゃんは語ってくれませんから、周りにいる人がその意味を読み取り、くみ取って推測しているわけです。幼ければ幼いほど、赤ちゃんの1つ1つの情動表出の意味を周りの大人がどのように受けとめるか、例えば、その養育者が1つの情動を読み取って、表出された情動に調子を合わせていきますが、赤ちゃんが6ヶ月の時点ですと、赤ちゃんと同じような表情をする、模倣することが多いんですね。9ヶ月という月齢ですと、赤ちゃんの喜びに同調してその赤ちゃんの楽しい気分をもっと盛り上げるような関わり方をしていきます。たまたま赤ちゃんは1つの情動を表出したのですが、その情動を周りの大人がある1つの意味に受け取って、それを盛り上げるようと、それに歩調を合わせていくと、その結果として養育者の情動が赤ちゃんの方にも伝達する、伝染する、という過程を情動調律といっています。例えば、離乳食を食べさせるとき、今日も離乳食を食べさせていらっしゃる場面を拝見させて頂きましたけれども、食べさせようとしたときに自然とお母さんや保育者の方も口を開けてしまうとか、赤ちゃんが予防注射をするときお母さんの顔もしかめっ面になっていくなど。赤ちゃんの情動表出を受け止めて、特に大人が赤ちゃんに関わっていくのは、赤ちゃんが泣いたり、ぐずったりする時になだめるといった触れ合いをすることが多く、泣きを心地よくおさめてくれる経験を多くした人に対して、赤ちゃんは結びつき形成していくといえます。それがまさに保育者との結びつき、お母さんとの結びつきという愛着関係と言われているものです。愛着関係が結ばれることによって、子どもの情動調整が発達し、自分の情動をコントロールしていく基礎となっていきます。情動調律を出発点として愛着を結んだときに、自分の気持ちをコントロールすることもできていくといえます。
お母さんにしてもお父さんにしても保育者にしても、生後3ヶ月位というのは、ある意味誰にでも同じ対応をしているのに対して、生後6ヶ月位からよく分かっている人には声を発したり笑ったりします。今日、私が突然伺ったことで、泣き出してしまった赤ちゃんがいらっしゃいましたけれども、こういう月齢的変化に伴って、親しい、そして自分の泣き・ぐずりを心地よく慰めてくれる人、そういうやりとりをした人は特別な人としての結びつきを形成していく、そのことによって、いわゆる人見知りも見られるようになっていくわけです。これは、お父さんに抱かれているところに、ちょうど見知らぬ私が近づいていったために、固まってしまったと子どもさんの写真です。特別な人がいるからこそ、人見知りが生じ、生後1年までに最低一人の人との間に愛着関係をはぐくんでいくことがとても大事になってくるわけです。
2、3歳頃までには特定の人をベースにして色々と探索するとか、3歳以上になると特定の人、お母さんが出掛けようとしているその様子を察知して、自分も一緒に連れて行ってもらうように、後をついて回ったりといった行動が見られるようになってきます。情動調律に始まり、自分が一つの情動を表出したことに対して的確に反応してくれる人との間に愛着を結んでいく、この愛着が子どもの発達にもつ意味は、レジメにあげてありますが、他者との間での信頼・結びつきではありますが、そのことが自分自身への信頼に繋がっていくこと、それから周囲への探索の安全基地となること、さらには、その人を介して多くの人との繋がりになっていくこと、この3点が、特に人に志向して生まれてきて、人との関係のなかで発達し、情動調律から愛着をはぐくんでいくことの大切なわけです。
大人との間にこういった関係が結ばれたときに、子どもさんの注意は遊びを通して同年齢の仲間にも向かっていきます。1、2歳から3、4歳で子どもにとって楽しい遊び相手は大人から同年齢の子どもさんたちに移っていきますし、遊びグループの人数も3、4歳までは2名程度が多いといわれていますが、4、5歳になると3人から5人に、男児の方がもっと大きなグループで遊ぶことも見られるようになってきます。お友だちとの関係が形成されてくると、そこにはまた矢印が両方にあるように、遊び方も大きく変わっていきます。例えば、これは水をかけて水車を回すという場面ですけれども、ペットボトルで水を汲んで、この子どもさんは最初こういうすくい方をしたものですから、ほんの少ししか水が入らないんですね。上からかけてもすぐ水が無くなり水車はじきに回らなくなってしまいます。隣でペットボトルを沈めて、ブクブクブクっと水を沢山入れてからかけるお友だちの様子を見て、その子は自分もそうした入れ方をしていきます。それから最初の1週間は1台の水車での水遊びだったのですが、1週間後に行ったときには水車を2つ重ねて、ペットボトルではなくてバケツで、といったように1つの素材での遊び方がお友だちの様子を見ることによって、その広がりであるとか楽しさの中身も色々と変わっていきます。この写真は泥団子作りです。どこの園でも子どもさんたちがある時期に凝る遊びですが、泥団子を作ることが目的の子どもさんもいれば、それをボーリングのように転がすとことが楽しくて、こういうトンネルを次々に作って、もっと下の方にゴールがあるのですが、どういう角度で転がすとゴールに入るかなど点数をつけて遊んでいました。色水を単に作るとことからレストランにして、お店屋さんになったり、緑色の色水でお茶のお手前になり年長さんはちゃんと正座して「結構なお手前でした」といったごっこ遊びを展開しています。これは落ち葉が落ちてきて、それを積木で囲んでの露天風呂ごっこです。女の子のお風呂好きといった遊びです。さらに大がかりな忍者ごっこは、手裏剣を作る活動から、この辺が忍者の修行のための段差となっていて、だんだんと体を動かして忍者として身体を鍛える遊びになっていきました。この子どもさんはあんまり身体を動かしたくない大人しい男の子さんなので手裏剣作りに専念しながら、でも忍者ごっこの仲間意識は持っているという姿です。これはもうひとつ違った忍者ごっこです。お友だちとの関係がはぐくまれてくると、ごっこ遊びの中身にも広がりがあり、そこにどういう材料を保育者が用意しておくかによっても、そのイメージの広がりがすごく違ったものとなっていきます。
その次に3番目の独自の世界と遊びということでは、これも資料の4に示してありますが、個人空間、パーソナル・スペースの特徴を図に示したものです。私たちは自我が確立してくるにつれて、他人が近づいてきたときに、それ以上接近されると不安になってしまう空間を、一人ひとり皆さん持っていらっしゃいます。これが後ろの方で前の方が見えるので、前の方が広いんですね。このパーソナル・スペースは女性の方が小さく、男性の方がこれだけの広いパーソナル・スペースがあるのに対して、女性とはこれだけ違っています。接近し合うことに女性の方が寛容です。このパーソナル・スペースは、最初にお話しましたように、自我が確立してくればくるほど広くなるというように、年齢、相手、文化によっても違います。子どもも独自の世界を持つようになるにつれて、子どもなりのパーソナル・スペースを持つようになります。本当に狭い空間に沢山折り重なるように入るのが、とても楽しい遊びになっている姿も見られますが、幼い年齢であったとしても、人と適度な距離をとるというのが、お友だち関係をスムースに結んでいく上で求められてくるわけです。仲間に入れてもらうには、人と適度な距離をとることをその年齢なりに理解し体得していく必要があります。エピソード4では、人と接近し過ぎる4歳女児の例なのですが、ふっと気がつくと、もうこの辺に女児の顔があるとか、物を渡すのに相手に接近しすぎるなど、そのお友だちは圧倒されるような感じがしてしまい、敬遠されてなかなか仲間と遊ぶことが出来ないのです。自我が確立するにつれて、それぞれにパーソナル・スペースがあり、お互いに物理的な距離を保つことが友だち形成の上で大切になってくるわけです。
ともにある世界も独自の世界も自然との関わりのまわりの世界、これら3つの世界をその年齢なりに生きていくことに伴った楽しさを考えたとき、「ひとりでの楽しさ」と「ともにある楽しさ」の2つの楽しさを十分経験することが大事なのではないかと思います。ある女児の例ですが、1週間、園に行くとお友だちが待ち構えていて「ままごとをしよう!」と、ままごとコーナーに連れて行かれ1日中ままごとをしていました。でも、もうままごと以外のことをしたいなと思っているのですが、なかなか言えないでいました。ある日、自分は決心して園に来たのですが、やっぱり先に来ているお友だちに誘われて、ままごとコーナーでままごとをし始めたんですね。保育者の方は一緒にままごとをしているから安心して、今日もまたいつものように二人で仲良くままごとをしていると捉えていましたが、ふっと気づいたら、その女児が一人、図書コーナーでポツンと座っているのです。何かちょっとしたトラブルでもあったかなと思い、保育者が何気なく脇に座り「何してるの?」と尋ねました。すると、今日はままごとをしていたのだけれども、家出をするというエピソードにして、ままごとコーナーから離れているのであり、一人そこにポツンとしているのではなくて、彼女が選びとった一人での楽しさを味わっているときだったのです。それを聞いたときに、トラブルがあったのではないにしても、「何故、今日はままごとではなく、私はこれをやりたい」という気持ちをお友だちに表現しないのか、家出といったエピソードにする巧みさと、もう少しお友だちとの間で自分の気持ちを表現しあうこともあっていいのではないか、などと複雑な思いをしたというお話を伺いました。ひとりでしか楽しめない、誰かがいないと楽しめないではなくて、やはり「一人での楽しさ」と「ともにある楽しさ」を十分に味わって、その日その時によって、自分はどちらの楽しみを、何を誰とどういうことをして1日を過ごそうかなど、お互いの意思表示をお友だちの間で、遠慮するのではなく表現しあうとうことをはぐくんでいくことも大事ではないかと思っています。
子ども自身が自分を知るというときに、その手がかりとして自己観察と社会的フィードバックと社会的比較の3つがあると言われています。これが1つの図ですけれども、自分の服が汚れているのを自分で気づくというのが1番の自己観察ですね。それからお友だちにあなたの服汚れているよとか、先生に言われて気づくのが社会的フィードバック、自分の服とお友だちの服とを比べて自分のは汚れていること気づくのが社会的比較です。「服が汚れているのにどうやって気づくのかな?」と子どもに聞きますと、自己観察、すなわち、自分で気づくと子どもは答え、あくまでも子どもは自分自身で気づくと捉えているのです。大人は、得てしてそうしたことを、ちょっと早くに言い過ぎている面があるのではないかと思うのです。自己観察で自分自身で気づくと子どもは捉えているのですから、子どもが気づくのをちょっと待ってみる。子どもが主体的に気づく、言われて気づくのではなくて、自分から気づくのを待つ姿勢がとても大切なのではないかと思っています。楽しさとの繋がりのなかで、そういった点での保育者の関わりが、ゆとりを持って子どもにゆったりとした時間を確保してあげるとことがとても大切ではないかと思っています。
3.発達を踏まえた保育
3番目としまして、発達を踏まえた保育があげてあります。発達心理学の専門からいいますと、子どもが一人でできるもの、それに対して一人ではできないですが仲間と一緒でやるとできるとか、先生がちょっとヒントを与えると可能になるものがあり、それは一人ひとりの子どもさんの運動面であったり、何か字を書くとか、あるいはジャングルジムを登るとか、そういう一つ一つの活動を例に考えて頂ければいいのです。一人で可能な水準と、一人ではできないけれどもお友だちと一緒に、あるいは先生が援助してくれればできる水準。前者と後者の水準を比べますと、後者の方が水準としては高いわけです。一人でできる水準と何かちょっと援助が得られるとできる水準、この2つの水準の差が発達の最近接領域と呼ばれます。一人ひとりの子どもさんのまわりの世界、ともにある世界、独自の世界の3つの世界の発達の最近接領域を捉えることが、保育をする上でとても大切なことではないかと思います。
まず第一に、この発達の最近接領域を一人でできるようにしていくにはどのような働きかけ、どのような援助をしていったらよいのかは、本当に一人ひとりの子どもさんによって違います。そこのところを保育者として掴み、そこに働きかけて足場作りをしていくこと、そして第二に、行動の背景を捉えること、があげてあります。この図はレジメに示してある6つのステップを示しています。例えば、ジグゾーパズルを組み立てると商品がもらえると設定したもとで、組み立てたものをお友だちが壊してしまったとき、わざと壊したのか、手伝おうとして壊してしまったのか、その意図が曖昧でよく分からないという3つの条件で、乱暴だと言われる子どもさんと普通の穏やかな子どもさんの対応を質問しました。すると、わざと壊した場合には穏やかな子どもさんでも怒ります。手伝ってあげようとしたのに壊してしまった場合は、乱暴だと言われる子どもさんも仕方ないと思うようです。ところが、意図が曖昧な状況で自分が作ったものが壊されたとき、穏やかな子どもさんは何か理由があるのかも知れないと思うのに対して、周りから乱暴だと言われる子どもさんは意図は曖昧なのにも拘わらずすごくネガティブに捉えて怒ってしまうようです。怒るにしてもその行動の背景に、動機であるとか、相手の行動の意図をどのように解釈するかといった点に違いがある場合もあるのです。近づいたらボンとぶたれるなど、お友だちから比較的そのような捉え方をされている子どもさんの場合、じゃあどうしてそういった捉え方をされてしまうのかを考えたときに、その行動の背景にある要素、その子どもさんの動機であるとか意図の解釈のあたりをサポートする手がかりがあるかどうかを見ていくというのが、2番目の発達を踏まえた保育として言える内容です。
3番目に自己の育ちを支えるということでは、集団生活のなかでは色々な生活習慣をはぐくんでいくという面もあります。しつけを通してというときの「しつけ」についての考え方ですが、大人側では子どもを社会に適応していくために、みんながする行動のルールを伝えていくという社会化の意味で捉えています。しかし、子どもの側に立ってみますと、自分を見失わずに大人がこうしなさいという、そういう相手の要求を受け入れると同時に、自分の要求を相手に受け入れてもらうにはどのようにしたらよいかを探っていくプロセスでもあると思います。ですので、しつけの結果、生活習慣が自立して何かができるようになるという面だけではなく、一人ひとりの子どもさんのなかに自分で判断して、自分で行動していくという主体性がどのように変化してきたかという面も捉えていくことがポイントになるのではないかと思います。生活習慣を自立させることが、単に大人側の社会化という意味合いだけでなくて、その過程で子どもの自主性、主体性がどのように変化したかを見ていく、そういった面から、子どもの視点から「しつけ」を捉えていだきたいというわけです。
それに関連して、3歳、4歳、5歳という年齢で、自己主張と自己抑制の育ちがどのようになっているのが示されています。この図から、自己抑制は順調に伸びていきますが、自己主張は年中で頭打ちになってしまっています。これは子どもに図版を見せて、答えてもらったときの自己主張と自己抑制の子ども自身の捉です。幼稚園の先生に日常の子どもさんの行動を見て、3歳児から6歳児について評価してもらったものでも、やはり自己抑制は幼児期順調に伸びていき、しかも性差があって女児の方が高いのですが、自己主張の方は4歳半ばから頭打ちになります。こういった自己主張と自己抑制の幼児期での育ちを日本とアメリカとイギリスで比べてみますと、日本では自己主張が伸びず、自己抑制は順調に伸び、アメリカではその逆、それに対してイギリスではその両面が育っているんですね。これが7の図に示してあります。この育っている側面に対して、そういう行動をしたときに大人が褒めているのです。日本の場合にはお母さんとか幼稚園の先生とか保育園の先生たちが自己主張というのはたまにできる程度でいいとし、自己抑制、我慢するのはその時々にできなくては困ると考え、我慢したときにはよく褒めていますが、自己主張したときは「う~んそうかな」という感じで、褒めるときもあるかも知れませんが、必ず自己主張したからといって褒めたりはしていないのです。こうしたフィードバックが子どもの育ちに反映していくわけです。特にイギリスの両面が育っていることからは、主張すべきときには自己主張する、我慢すべきときには我慢するというように、どういう場面だから今は主張していいのだということを、ちゃんと大人がメッセージとして伝えていくとが、大事になってくるのではないかと思います。ややもすると自己主張というのは相手を否定して攻撃することのように、日本文化のなかでは捉えられているかと思いますが、自己主張の本当の意味は、相手の意見を十分聞いて理解し、相手の意見をすごく尊重した上で、自分も自分の考えを主張していくというものです。その意味では我慢することだけを褒めるのではなくて、どういう場面では主張することを、今日は自分は何をして遊びたい、誰と遊びたいと思っているのかを、家出というエピソードではなくて、もっとストレートに気持ちよく出し合う、そういう関係をはぐくんでいっていただけたらと思います。
まとめ
最後にまとめとして、保育のなかでの育ちのポイントについてレジメの下の方にあげてあります。①子どもの育ちとして自分に向き合って自分を知ること、②人との関係を形成して調整するという、自分の気持ちを表現するんだけれども、人の気持ちも推察して理解して、そして尚かつ自分たちでトラブルを解決していく。そういった面を集団保育という場面だからこそ育まれる力として、特にきょうだいが少なくなっている、あるいはすぐキレてしまうのではなくて、小さいときからお友だちとの間でのせめぎあいのような、ネガティブな状況にも耐える力、そして嬉しい悲しい悔しいといった気持ちを抱きながら、でも平穏に暮らす。そして衝突した後には、そのお友だちとさらに深い関係になれる、そういったぶつかり合いを保育の中で大切にしていっていただきたいと思っています。
保育のなかでの子どもさんの育ちのポイントはこの2点で、次に先生方には質の高い保育者について8番と9番にあげておきました。①子どもの話をよく聞く。子どもの人格を認める。②一人ひとりの子どもさんに潜んでいる可能性を保育者だから掴める、保護者では見逃してしまう小さな子どもさん一人ひとりの可能性を見いだして、③保育を専門とするだけに今は見守るときなのか、今は一緒に動いくときなのか、あるいは後ろからちょっと押してあげる、プッシュするときなのかを見極めていただきたいと思のです。見守るときなのか、一緒に行動するときなのか、プッシュするときなのかを見極められることは、そこに保育者一人ひとりが保育者として自分がその子どもさんに対して何をしているのか、なぜそれをしているのか掴めているといえます。そういった力を保育者としての経験のなかで積み重ねていっていただきたいと思います。④保育者自身の人としては、子どもが寄ってきて何かフワッとするとか、ほっとするとか、そういった雰囲気をもった人であって頂きたいと思うのです。それには、先生方お一人おひとりが、ご自身のまわりの世界、ともにある世界、独自の世界をしっかりもち、その3つの世界を同時に生きているとことがとても大切なのだろうと思います。日々の保育のなかで保育のポイントとして、今ここにあげましたことに少しでも何か響くものがあれば、それに基づいた努力をしていただけたら嬉しいなと思います。
今日お手元に円が描かれた紙をお配りしてあります。あなたというのが真ん中にありますが、これが先生お一人お一人ご自身だとしたら、その次に隣接している円には、もうその人がいないと私は一日たりとも生きていけない、先生方お一人おひとりにとって、とてもとても大切な人を一人でも二人でも三人でもあげていただく、その次の第2の円には、第1の円ほどではないけれども、先生方お一人おひとりにとってとても大切な人、同じようにその次の第3の円には、その次に先生方お一人おひとりにとって大切な人をあげて頂いて、それがご自分にとっての人との関係、愛情のネットワークとして、ご自分の周りの人との関係をちょっと振り返って頂けたらと思います。その次に、クラスの一人ひとりの子どもさんをあなたのところに置き換えたときに、保育者としてその子にとって第1の円の存在なのか、第2の円の存在なのか、その子にとって保育者としてどのような意味があるのか。それは保護者の方に試みていただいてもよいかと思います。お母さんにとって大事な人は誰か、あるいはその子どもさんにとって、母親や父親は第1の円なのか、第2の円なのか。幼稚園や保育園でお話したときにお父さん、お母さんに試みて頂いたのですが、参加されたお父さんのお一人が「自分の父親はこの第3の円にもいなかった。だから自分が父親になったときには第1の円にいてやりたいと思って、今日も来ました」とおっしゃっていました。親が第1の円にいることがとても大切な時期と、親がどんどん引いていくことが大事な時期があります。父親と母親でもその第1、第2の違いもありますし、保育者も第1の円から第2の円になって、第1の円にお友だちが沢山あがってくるといった年齢変化もあるかと思います。一人ひとりの保育者としてのあり方ですとか、クラスの子どもさんの愛情のネットワークを、ちょっと時間があるときに試みて頂けたら、そのお友だち関係ですとか、保護者の方にも自分と子どもさんとの親子関係を振り返って頂く手がかりになればと思って持ってきました。活用して頂けたらと思います。長くなってしまってすみませんでした。これで私の話を終わりにさせていただきます。ご清聴ありがとうございました。
~以上の文章は2006年3月18日、保育園ベアーズにて行われた”第7回子育てひろば21講演会”の内容をテープから起こし、文書化したものです。この文章を無断転載、引用することを禁じます。~