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危険(リスク)は必要

子どもたちにとって「絶対に安全」という環境はないだろう。
室内においても屋外においても、家の中も家の外も、どんなに安全を目指しても無理である。よそ見をしていれば何かに躓いたり、ぶつかったりするであろう、これに伴い怪我をすることも珍しくはない。かといって、子どもたちがよそ見を全くしない生活をすることも考えられない。
ヒトが生活していく中には危険(リスク)は必ず存在する。リスクの存在は避けられないという前提で大きな怪我をしないように配慮していくことが必要である。高いところに上っている子どもは落ちることが想定され、地面に寝転がっている子どもは走って来る子どもに踏まれることもあり、座っている子どもは上から何かが落ちてくるかも知れない。このような時の対応は、「上るな」「寝るな」「座るな」ではなく、危険が迫った時にどのように避けることが出来るかを教えることであり、周りの大人が危険を予測し、寸前に手を差し伸べることが出来る体制を整えて怪我などを防ぐことが大切である。
子どもたちはリスクに囲まれて育つうちにリスクへの対応方法を身につけていくだろう。ここで言う「リスク」とは、ある程度予測可能なものを指している。想定外の危険は「ハザード」として分けて考えるべきで、ハザードには子どもたちも大人も対応は難しい。暗闇で地面に転がっている石、そこらあたりに立っている柱など、どこにあるか見えなければ想定できず、走り回れば、転んだりぶつかったりすることは避けようもないだろう。
子どもたちにとって想定外の危険、ハザードをなくす努力が大切である。ちょっとしたところにハザードはある。少しとがった玩具や家具の角など充分にハザードになり得る。年齢不相応の玩具もハザードになるだろう。園庭の大型遊具、特に滑り台、ジャングルジム、ブランコなどもハザードになり得る、最近は使用禁止にしたり、使用制限を加えているところも多くなっているようだが、それならいっそ撤去した方が園庭も広く、安全に使用できるだろう。園庭で走ることも、動線を考えながら遊びを設定しないと動線が重なってハザードになる。走り回る子とボール投げなど動線の重なりには注意が必要である。

——————————————————————————–Kaname Tanimoto 13.03.24…

しつけ また (トイレ)

またまた問題出現、
2歳児でトイレ行きたくない子を怒ったりしない、までは良いと思う、しかしこの子を優しく抱っこしてトイレまで連れて行く、これが優しいことなのだろうか?子どもの立場から見れば、トイレに行きたくないと泣いているのは何らかの事情があるからである。その事情は子どもにとっては大切な事柄であろう、泣いているのだから。その大切なトイレに行かない事情を理解しないまま、(いつものことだから)などの大人側のいい加減な判断でトイレに無理矢理連れて行かれては、子どもにとっては堪ったものではない。行きたくない時は行きたくないのだ、これを尊重して欲しい。無理矢理連れて行ったりしていると、時々相談がある「トイレで排便が出来ない5歳児」や「紙パンツ中でしか排便、排尿が出来ない5歳児」や「ウンチが出そうになると泣き出してしまう5歳児」「隠れてウンチをする5歳児」になってしまう。本来、排尿、排便は人間にとって生理的、自然なものであり、不快なものではなく快感を感じるものであるはずである。この生理的な行為を人為的に不快なものにしないように細心の注意を払うべきであると思う。
——————————————————————————–Kaname Tanimoto 13.03.14…

ふたたび「しつけ・食事」

 食事の量、種類(好き嫌い)、速さ(時間内に食べ終える)など、大人からみて「こうあって欲しい」と願っても、子どもたちが応じてくれないことは珍しくありません。小食であったり、逆に「ごはん」ばかりたくさん食べたり、好き嫌いが目立って食べるものが偏ったり、ゆっくり食べ過ぎて中々終わってくれなかったり、逆に早食いすぎて噛まずに飲み込むような食べ方をしたり、挙げれば切りがないでしょう。
 このような時に大切なのは食べる目的は何だろうと考えることです。量が目的?種類が目的?速さが目的?これらは目的とすることだろうか?食事の目的は最終的には子どもたちであればスクスクと育つことである。その為には少々のことには目をつむっても構わない。体重、身長、日々の顔付き、顔色、行動量などをしっかり見ていれば食事が不足しているか、栄養が偏っているかなど判断できる。これらに問題なければ食事にも問題なしとして良いと思う。

 たった一口の嫌いなものを食べさせるために時間を費やし、子どもに不快な思いをさせ、食べさせることが出来ない自分に苛立っても何にもならない。

 食事で最も大切なのは楽しいものであるかどうかである。食事の時間が待ち遠しくなるほどよく遊び、走り回ることが大事である。そしておいしい食事の提供を楽しい雰囲気の中でしていきたいものである。

——————————————————————————–Kaname Tanimoto 13.03.01…

子は親の鏡

ドロシー・ロー・ノルトの詩(「子どもが育つ魔法の言葉」石井千春=訳、PHP文庫)が1954年に書かれ、「子は親の鏡」という言葉が時には一人歩きして誤解されたり、意味を取り違えられたりしながら現在まで生き続けています。途中著者によって、加筆されたり、訂正されたりもして現在に至っています。この文庫本を久しぶりに手にして今話題の体罰論議にも通じるものであり、体罰不要論を支持する詩であると思う。すべての体罰をなくしていくことから始めないと、必要な体罰があるという中途半端な主張・考え方は結局体罰肯定論になってしまう。必要な体罰という考え方は、「特定の個人」が「特殊な状況」で「個人的に判断」して行うことを許容してしまうから、普遍的に必要な体罰、社会的に必要な体罰とはかけ離れてしまう。体罰を受けながら「成功」「好結果」を得た人たちは体罰には効果があると考えがちであろうが、その一方で体罰によって精神的、肉体的に被害を受けスポーツや勉学などの場から立ち去った人もたくさんいるだろう。この立ち去った、立ち去らざるを得なかった人にこそ目が向けられるべきであり、そうすれば「必要」な体罰などないことが明らかであろう。

——————————————————————————–Kaname Tanimoto 13.02.10

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手作り

子どもの頃、手袋、セーター、布おむつ、袋物などに限らず、漬け物、干し柿、干瓢などの食べ物、竹馬、弓や矢、竹とんぼなどの遊具でも手作りのものがたくさんあった。ざっと思い出してみただけなので実際にはもっといろいろあっただろう。この時代、手作りでなければ手に入らなかった。恐らく裕福な家では専門職の人が手作りで作った立派なものもあっただろうが、田舎では、親や兄弟が作ってくれるものしかなかった。手作りがよかったのかどうか、よく分からないが、少なくとも買う資力はなく、子どもたちに手作りで与えるしか方法はなかった、今よりも遙かに生活に追われて食べるために一所懸命であった。お金は子どもの遊具より食べ物が最優先の時代である。
最近になれば、手作りのものは貴重になってきている。高価でもあるし(ものにもよるが)中々手に入らないものとなっている。これは手作りのものに比べ、ロボットなどで作られるものの方が質も良く、安価で、デザインなども多種多様で魅力的になってきているからであろう。製法も工夫され、ロボットが作ったのか手作りかよく分からないロボット製のものもある。
保育園などで手作りを強制的に求めることがあるようだが、その真意は何だろうか?
過ぎ去った昔への郷愁か? 手作りだと愛情が籠もるものなのだろうか? 手作りの苦労は子育ての重さを実感させるからだろうか? 手作りに割く貴重な時間は子どもたちの取っても貴重な時間として実感できるから? 私には理解できません、結局は保護者が決めれば良いことであるとしか思えない。

——————————————————————————–Kaname Tanimoto 13.02.01…

情報公開と守秘義務

最近は情報公開は当然となっている。役所の情報も手続きさえ踏めば多くの情報を手がに入れる事が出来る。もちろんネット上での公開もきちんと行われている事が多いが、これはあくまでも役所側からみて公開した方が良いと考えた情報が公開されている、当たり前の話ではあるが。また、縦割り行政のため、情報を横断的にまとめ、整理するということはあまり熱心にされてはいない。横断的な情報を得るためには、それなりに指定して情報公開を求めていくのが近道である。ネット上にあるものから自分でまとめる事もある程度までは可能であるが、欲しい情報を探すのは結構大変である。担当部署さえ分かれば、依頼する方がきちんとしたものが手に入る。依頼する時に曖昧だとやはり曖昧な内容が帰ってくるので要注意である。
 役所以外でも情報公開を求められる事が増えている、保育園などでもHpなどを使ってでも、保育方針や決算情報など出来るだけ公開する方が良いと考えている。
 しかし、どこにでも公開されては困るものもある。特に個人に関する情報を持ち出すことは絶対に許されない。保育園に限らずいろいろな所に個人情報は存在するが、多くの個人情報は何かの目的を持って集められた(得られた)ものである。この目的外使用は裏切り行為であり、信頼関係を破壊させるものである。役所でも法人でも色々な規制、規則で情報管理に努めている。どのような取り決めも破られないものはない。情報を守っていくための最低限の約束が守られるかどうか、最後は個人的な責任、信用に関わってくる。情報を扱う立場にいる人が意図的にその情報を持ち出す事を完全に阻止することは不可能であろう。どのような情報も、常に漏れていないか注意を払っていく以外に方法はない、漏れていた場合には迅速に対処する事以外に方法はない。情報の動きに鈍感になっていると守るべき大切な情報がいつのまにか拡散してしまう。

——————————————————————————–Kaname Tanimoto 13.01.20…

選択肢

子どもたちに選択肢を与えるという事は、自己決定を出来るようにしていくためには大切な事である。選択肢を与えていると思っているだけで、実は選択する事が出来ない状況も見受けられる。今日はブロックで遊ぼうか?と提示された時、この時点で選択する事は出来ないよと言われたと同じ事になっている。たくさんのブロックがあるからそこから選択してブロックを使った色々な遊びが選択できる、皆で協力してブロック遊びが出来る、今まで作った事のないものを作る事が出来る、いろいろな言い方は出来るであろうが、すべて大人の目線での発想である。子どもたちはブロック以外の遊びを選ぶ事は困難な状況に置かれてしまっているのだから。しかし、子どもたちから大きな不平は出ないだろう。子どもたちは我が儘で大人の言う事を素直に聞かない、なとどいうことも多いが、実際には度量は大きく、適当に大人に会わせて遊ぶであろう。不平が出ないから子どもたちは満足し、充実した遊びが出来ているなどと言うのは大人の見る目、感じる心がないからである。子どもたちには常に多種の選択肢を与える事が自分で考えて遊ぶ第一歩である。多種のみでなく多数も必要。少ない遊具では限られた発想しかできない。積み木を考えてみれば、2個の遊びと100個の遊びと1000個の遊びでは違いは明らかであろう。1人でなく協同しての遊びも出来るくらいの量も大切である。量が少ないと同じ遊びをしたい子がいれば取り合いのけんかの原因にもなるし、何人もで同じ遊びをする事も出ない。有り余るくらいの量がちょうど良いのである。余って困ってから考えれば良い事である。

——————————————————————————–Kaname Tanimoto 13.01.14…

冷たい手、足

昼間、元気で遊んでいる子どもたちの手のひら、足の裏は氷のように冷たいのが普通です。昼間遊んでいる時に寒いかどうか、着ているものが適当かどうか、判断に迷う事も少なくないと思います。寒いかどうかは、背中、お腹、胸に直接触ってみて下さい、そこが暖かければ寒くはありません、そこが汗ばんでいたり、汗があふれていれば単純に暑いのだと考えて下さい。汗が出ない程度に薄着にすることも必要です。手足は冷たいのですが寒いかどうかの判断材料にはなりません。寒いだろうと靴下をはかせる必要もありません。靴下をはくのは、靴を履く時だけで充分でしょう。眠くなった時、眠っている時は足の裏は暖かくなっていますので目覚めている時と異なります。

——————————————————————————–Kaname Tanimoto 13.01.07…

新しい石けん

赤ちゃんが生まれると色々と気になってくる。例えば、今まで普通に使っていた石けんを赤ちゃん専用の石けんを用意するのが普通になっているようである。ところが、少しでも肌荒れが起きてくると原因は身近なものに求める傾向があり、石けんは目に付きやすいものの一つのようである。赤ちゃん専用の石けんはそのまま使い続けて良いかと聞かれる事が多い。肌に直接触れるので気になりやすいのだろう。赤ちゃん用と銘打った石けん、シャンプー、洗剤はたくさんあり、価格も普通の石けんよりは少し高いようである。「どの石けんが良いか」という質問があるが、どれが良いかは使ってみるしかないといつも答えている。赤ちゃん用となっていなくても、赤ちゃんの肌に何らかの悪影響(肌荒れ、湿疹など)が出るかでないかで判断するしかない。今使っている石けんで特に大きな問題がなければ、いくら赤ちゃんの肌によいからと勧めれても、わざわざ高いものを買う必要はない。肌荒れの原因の多くは汗や衣服による刺激であり、石けんが主因ということは少ない。もし、肌荒れが気になり、石けんを新しものに変えてみたいのであれば、どれを選べばよいかは結果を見るしかない。新しい石けんを初めは片腕だけ、片足だけなど限られた部位で使い始めてこれまでのものと比較しながら結果を判定する事が必要だろう。

——————————————————————————–Kaname Tanimoto 13.01.06…

保育園の適正規模?

最近待機児童対策として極めて少人数の保育が行われ、公的支援も行われ始めているようだ。子どもたちの立場に立って保育園のクラス編成を考えて見るべき時期に来ている。ともすれば待機児童対策だけが強調され、子どもたちの保育環境は置いて行かれがちであるが、歴史的にはいろいろあったとしても、現在では基本的に保育園は「子どもたちの為にある」「子どもたちのもの」で有るべきと考える。子どもたちにとってより良い保育園で有るためにはクラスの人数もそれなりであるべきであろう。集団保育はある程度の人数でクラスが編成されて初めて成り立つものである。あまりにも少人数では集団保育としても意味をなさない。集団の中で育つ事の良さを引き出せないと思っている。このような研究はあまり為されていないと考えるが、0歳では数人程度からであろう。現在の厚労省配置基準の子ども3人に1人の保育士配置はほぼ妥当ではないだろうか。つまり、この3人単位が2~数単位までで一つのクラス編成が適当と考えている。1歳児では厚労省配置基準の子ども6人に保育士1人では、保育士の配置が少ないように思う。年齢による偏りが大きいが、せめて子ども5人に1人くらいに変えて欲しいと思う。クラスとしては、1歳児もこの5人単位が2~数単位くらいが適当か、と考えている。2歳児となると現在の厚労省配置基準子ども6人に保育士1人で適当と考えている。クラスとしては、この6人単位が2~数単位くらいが良いと考えている。3歳児は現在20人に保育士1人が厚労省配置基準であるが、これでは少し無理があり、20人に1.5人~2人の保育士配置が必要と考えている。クラスとしては20人を越えても良いが、その場合は保育士2名の配置が必要であろう。4歳児、5歳児は30人に1人が厚労省配置基準であるが、こちらは20人~25人に保育士1人を配置し、状況に応じて応援できる保育士をこの2クラスに1名配置するくらいが良いのではないだろうか。現在の保育園の運営費ではなかなか上記のような配置、クラス編成は困難であるが、待機児童対策が落ち着いて、子どもたち中心の保育園という考え方が根付いていけば世の中の対応も変わってくる、と期待している。

——————————————————————————–Kaname Tanimoto 13.01.03…