39.虐待、体罰をしている人によい所はない?

世の中にはいろんな人がいる。
良い人、悪い人、普通の人、優しい人、怖い人、勇気ある人、臆病な人、人見知りな人、出しゃばりな人、口うるさい人、目立ちたがりな人、活発な人、おとなしい人、おしゃべりな人、寡黙な人・・・。
このように分けて行っても結局一つで類型化することは出来ない。
ヒトはいろんな側面を持っているのである。

犯罪を犯した人を評して「普段の姿からは考えられない」テレビのインタビューで答えている善良な隣人。「あの人に限って、そんなことを」とも。

そうなのである。

ヒトは決して一面だけで評価は出来ない。
いろいろな顔を持っているのである。

しかし、虐待、体罰などは行った時点でアウトである。
普段どんなに良いことをしていても、普段どんなに優しい人であっても、普段どんなに賢くても、普段どんなに立派なことを言っていても、・・・。

虐待、体罰をしたということが問題であって、普段がどうであるかは問題外なのである。
庇いたい気持ちは良く分かる、
特に普段から色々お世話になっていると信じがたいのである、
何とかして良いところを強調して救いたいのである、
皆そう思っている、
「まさかあの人が、悪意はないのだろう」、
「普段は良いヒトなんだから、少々は」。

しかし、この場合、問題は子どものことである。
被害者側に立って考えることがまず大事。
加害者側に立ったら物事は見えなくなる。
悪意がないから、故意ではないから、・・・で免罪されてしまう。
後に残されるのは被害を受けた側である、
一生のキズに成りかねない、
人生が変わってしまうこともあり得るのである。

虐待、体罰、実行者にも良いところはたくさんあり、普段は善良なヒトなのである。
だからといって免罪符に成るもでは決してない。